蛍が行き交う夜半、怪士丸はふと目覚めた。 薄い闇に沈む部屋は彼を残して深い眠りに落ちている。 言い知れぬ嫌な予感がぞわりと彼の身体を侵食した。 試しに寝返りをうってみようと身体を捻るが、自身では動かしたつもりの半身はぴくりとも動かない。 怪士丸はゆっくり息を吐いた。 だが、顔面の筋肉はぴくりとも動かない。 やがて出入口の障子がカタカタ小さな音を立てて開いた。 じめりと湿った空気が支配する部屋に、蛍が一匹迷い込む。 その頼りない光を追いかけるように、何かが敷居を跨いだ。 途端に、肺の中まで凍りつかせんばかりの冷たい空気が広がった。 怪士丸は自分の呼気が白く立ち上り霧散する様を視線で追いかけた。 そうする間にも、部屋に侵入した何かは怪士丸が横たわる床へと近付く。 この分では怪士丸の顔にそれが触れるのも時間の問題だろう。 怪士丸は一つ瞬いた。 死の瞬間というのはもっと狂気と絶望に満ちたものだと思っていた。 それがこんなにも穏やかなものなのであれば、死とはそう恐るべきものではないのかもしれない。 何かはとうとうその指先を怪士丸へと伸ばす。 怪士丸はゆっくり瞳を閉じた。 「怪士丸」 名前を呼ばれて瞳を開く。 何かではないことはわかっていた。 す、と開いた障子の隙間から見知った顔がのぞいていたからだ。 怪士丸は彼の名前を呼んだ。 今度はすっと声帯を言葉が通った。 「伏木蔵」 「お邪魔した?」 部屋に足を踏み入れた伏木蔵は血色の悪い顔に曖昧な笑みを浮かべた。 「それとも連れて行ってもらいたかった?」 怪士丸は半身を起こして、彼を手まねいた。 部屋にはもう、怪士丸と伏木蔵以外誰もいない。 何かはどこかへ去ってしまった。 不条理な喪失感は、果たして本当に自分のものだろうか。 そんな疑念を噛み締めながら、枕辺にちょこんと座り込んだ伏木蔵の白い手を握る。 「もう少し、皆といたいよ」 密やかな願いに、伏木蔵は綺麗に微笑んだ。 部屋を所在なくさ迷っていた蛍はまた、細く開いたままの障子から夜の旅に出ていった。 了 (二ノ坪、鶴町) (2011/6/26) |