足が速いということを、これほどまでに利点だと思ったことは乱太郎にはなかった。ただ、少し人に自慢できる程度のことだと思っていた。三流だけれど心根の優しく暖かい父と母の元に産まれ、人より忍術が優れているわけでもない乱太郎の鼻を幾分か高くするくらいのことだと。 だから今、後ろから追ってくるきり丸の声が段々と小さくなる事実に、乱太郎はばくばくと早鐘を打つ心臓を持ちながらも、ホッと安心していたのだ。安心しているくせに、痛む。ひどく。その事実も振り切りたくて、ただひたすらに走った。びゅうびゅうと風を切り、走った。 「っ、はぁ、はっ……ぅ、あ…はっやい、なぁ!」 くそっと悪態をついたのは、乱太郎にではく、自分にだった。まさかこれほどまでに速いとは、知っていても体感してみるとそれは歴然とした差だった。それは一年のときから埋まることのない、差だ。 日夜アルバイトに励むきり丸の体は、軟弱とは程遠い。少なからず自分ではそう自負していた。だというのに、体のつくりから言えばきり丸よりも線の細い乱太郎を追い抜くことも、ましてや追いつくこともできやしなかった。 そのことを見越していなかった自分に腹が立った。 (天性のもんか) 顎を伝う汗を拭い、山道の脇にある丸石に腰をかけるとカッと燃えるように熱くなった体を冷ますように制服の胸元をひっきりなしにひっぱり、繰り返し空気を送り込む。この動作だけで見惚れる人間もいるほどに、きり丸は逞しくなった。 忍術学園に入学した当初は幼さを感じさせる丸みを帯びていた頬も、四年生ともなれば大人のそれに近づく。どこか大人びた表情や態度を取るきり丸は、実年齢よりも年嵩だと思われることが多い。 切れ長な目も、人を惹きつける。憂いを帯びた表情を見せれば、近づいてくる女がいることも、彼は知っていた。そういう類のことを、商売に生かしたことも少なくない。 けれどどんなに女を知ったところで彼には響かなかった。良し、と思えるものがあるとすればそれは「お金」と「学園」と「友人たち」だ。忍術学園で関わった人は、彼にとっては金と同等のものだった。 同等、といえば非情かもしれないが、きり丸にとってはこれ以上ない評価だ。生きていくことに必要なもの、という以上に大切なものはこの世にはない。 だからこそ彼は「女」には惹かれなかった。 人間として仲良くなったのなら話は別だが、初めから褥を期待され近づいてくるような女はそれこそ商売の道具としか思えない。自分でも冷めている自覚はある。だが、きり丸からすれば当然のことなのだ。そのことに反省も後悔もない。 後悔があるとすれば、それが彼――乱太郎にばれたことだ。 学園のおつかいとして町へ出て、無事おつかいも済んだところできり丸はいつもの「ちょっと寄り道して行こうぜ」という言葉を口にした。どうせ町に出たのだから、少しくらいいいじゃないかときり丸の言葉に渋る乱太郎を押し切り、どこか茶屋にでも入ろうかそれともお菓子でも買って、友人たちと食べようかと話をしつつぶらぶらしていたときだ。 「今日は一人じゃないんだねぇ」 一度目は気付かないふりをした。というよりも、声をかけてきた女に身に覚えがなかった。乱太郎も首を傾げきり丸を見るが気にせずに話を続けようとした。 「なんだい、無視することないじゃないのさ」 途端にキッと眦をつりあげた女はしなをつくりきり丸に近づくと、その塗りたくられた唇を妖艶に歪ませた。途端に浮かび上がる記憶に、奥歯を噛む。なにか香を塗っているのか、独特の香りに眉を寄せる。 乱太郎はきり丸と女の様子に不思議そうな顔をしたが、口を挟んだりはしなかった。 「忘れたとは言わせないよ」 どれだけあんたに払ったと思ってるんだい、といやらしく笑う口を今すぐにでも塞ぎたかったが、乱太郎のいる手前、きり丸はただ伸びてこようとする手を振り払うくらいしかできなかった。心根の優しい乱太郎の前で、女を打つのは気が引ける。それがどんな理由でさえ、彼は先一週間は口をきいてくれないことがきり丸にはわかっていた。 「先を急いでるんで」 だからこそそう口にするだけにとどめて、立ち止まる乱太郎の手を引いてその場を離れようとする。 「褥では随分猫をかぶっていたんだねぇ」 甘ったるい声に潜む、女の自尊心に思わず乱太郎の手を握る拳に力が入るのを感じ、きり丸は慌てた。勘付かれないようにそっと力を抜く。自分のことで乱太郎に傷がつくなど、まっぴらだった。 「人違い、ですよ」 白々しい嘘に女の高笑いがかぶるのを聞きながら、段々と不安そうな顔になり「きりちゃん?」と弱弱しく彼を呼ぶ乱太郎を連れて、きり丸は駆け出した。 追ってくるつもりもない女が見えない場所まで来るときり丸は息を吐いて握っていた乱太郎の手を離す。痛くなかっただろうかと、そればかりが気がかりだった。 「……さっきの女の人、知り合い?」 声にこもった陰を、きり丸は見逃さなかった。 「人違いだろ」 それを払拭するように言い切るが、その声の苦々しさにいくらお気楽な性格と言われる乱太郎も気付かないことはない。「うそ」と唇の上を滑らせるように呟くとそれきり黙ってしまった。 俯いた乱太郎の、出会ったころから変わらない柔らかい髪に視線をやる。 報いだ、ときり丸は思った。 今まで自分のしてきた行いに対しての、想う相手がいるというのに不義を重ねる自分への、これは報いなのだと。 (馬鹿だ) 変装のひとつやふたつ、すればよかった。 けれど思う事はそんなことばかりで、きり丸は苛立たげにくしゃりと髪をかきあげる。どうしたってこの頭は、商売のことばかりだ。 「そ、ういうバイトなんだ」 思わず掠れた声に、ごくりと喉を鳴らすと未だ俯いたままの乱太郎に慌てて言葉を重ねた。 「けどあれだぜ? 一緒にお茶したりとかどこか少しでかけたりとか、そういう、そういう擬似的な恋仲を演じるってだけの――」 言っていて自分の言葉の嘘くささにきり丸はつとめて明るくした声を途切れさせる。なにが恋仲だ。 恋など、成就させたこともないくせに。 「ごめん……」 「別に、きりちゃんが謝ること、ないよ」 その声が震えていることにきり丸は目を瞠る。なに泣いてんだ、と肩を掴むが乱太郎は頑なに顔をあげようとしない。泣いていないと、強がるばかりだ。 彼が泣くところなど、しんべえが学園を去ることになったとき以来、見ていない。それも隠れて泣いているのに、きり丸が気付いてしまっただけだ。 少し強めに体をゆするが、依然として乱太郎は俯く。それならばときり丸は覗き込むようにして、そばかすの残る顔を見上げた。 「っ……見んな、よ」 いつもは口にしないような言葉遣いに、きり丸はどきりとする。紅潮した頬とその頬をすべる涙に、言われたことも忘れてくしゃくしゃに崩れた乱太郎の顔を呆けたように見続ける。 「見るなって言ってるのに、きりちゃんは」 ほんとう、意地悪だ、と震える声で吐き出した乱太郎はめがねを外すと赤くなるのも厭わずにごしごしと涙を拭う。 「乱太郎、ごめん、ごめんな」 いつもの冷静さなどどこかにやってしまったきり丸は八の字になった眉のままそう何度も繰り返した。そのたびに乱太郎は「いいってば、びっくりしただけだよ」とか「もう泣いた私が恥ずかしいからやめてよ」と戦慄く唇で笑顔を作った。 「本当に、悪かった」 特殊に肩をさげ項垂れるきり丸に、乱太郎は困ってしまった。 きり丸が女の人に好かれる容姿だということも知っていたし、彼がそういう類に長けていることも知っていた。けれどいざ目の前に突きつけられると、感情の制御が利かなくなってしまったのだ。これじゃあ忍者失格だと、泣きながら思っていた。 だからこんなふうに、きり丸が謝ることなど本当にないのだ。 「きりちゃんが謝る理由ないじゃない」 確かにそういうことでお金稼ぐのは、どうかと思うけど、という小言を付け足して乱太郎は笑みをこぼす。あまり謝られるのは得意ではなかった。 「あるよ」 だからこの言葉には「え?」と聞き返してしまったのだ。 「謝る理由なら、ある」 顔を上げたきり丸は、驚いた乱太郎の顔を見つめると「あるんだよ」と繰り返し口にした。その瞳の力強さに、気圧される。思わず視線を外してしまう。 「好く人があるのに、そういうことをしたんだから、謝る理由はある」 真剣な声に、乱太郎は心臓が跳ねたのを感じた。それはだめだね、きりちゃんが悪い、たしかに謝らなきゃいけないけど、私に謝るのは違うよ、というきっとこんな状況じゃなければ助言として口にしただろう言葉も、上手く発せなかった。 目の前に翳された可能性に、乱太郎は呼気が乱れた。 まさか、そんな、まさか――。 嫌だ! と思った瞬間に乱太郎は駆け出していた。足は地面を強く踏み、前日の雨ですべりやすい道をもろともせずに、すぐに自分の達することのできる最高の速さを手にし、乱太郎は走った。 追いかけてくる気配はあるが、それもすぐに遠くなる。気付いたときには、学園の裏山まで来ていた。 「ぁ、はぁ、はぁ、……っ」 止まった途端に吹き出した汗が目に入り、めがねを外し乱暴に拭う。大きく息を吸うと、新鮮な空気が体を満たした。そうして二、三呼吸を繰り返しなんとか平常どおりの呼吸を取り戻そうとする。 「っ、う」 けれど蘇るさきほどのやり取りに乱太郎の心臓は未だ正常とは言えなかった。考えないようにとすればするほど、絡まるきり丸の言葉。 好く人があると言った、あの真剣な声。真摯な眼差し。 そして町で会ったあの女の人。どれもがぐるぐるとし、乱太郎はその場にしゃがみこんだ。 枯れろ、と思う。 涙なんて枯れてしまえばいい。そうすればみっともない姿を見られることもなく、みっともない自分に気付くこともなくなる。枯れろ、枯れてしまえ、そう思いながら、地面をぬらすそれを止められないでいた。 きり丸の言葉は、乱太郎に確かな歓喜をうんだ。全身を覆うような喜びが一瞬で乱太郎を包んだのだ。 だけれど、どうしてそれを受け取ることができるのか。 乱太郎にとって、きり丸は最高の友人だった。そして長年の、想い人でもあった。実らない恋、結ばれない気持ち、それらが乱太郎の後ろめたさを助長させた。 親友だと思うたびに嬉しくなる心と、悲しみにくれる心を、同じところに持っていた。悲しむなんて、きり丸にとっての裏切りでしかない。 だからこそ乱太郎はつとめて明るく、いい友人でいられることを嬉しく思うようにした。悲しみを閉じ込めて。 結ばれたいなどと思ったことはない。誰よりも彼のよき友人でありたかった。忍びが、大切な人間を作ったらいけないなどということはない。だが乱太郎は、きり丸と結ばれてしまったら、きっと忍びであることを恨んでしまう。 それだけは嫌だった。それだけは、嫌だったのだ。 暖かい両親のできはけしてよくないが、父親を尊敬し同じ職につく親思いの息子として、ありたかった。それ以外の道は欲しくなかった。それがきり丸の気持ちを跳ね返す行為であってもだ。 う、う、と漏れる嗚咽を噛み締めようと唇に歯を立てる。どうか、早く、枯れてくれと願う。 この恋心と一緒に、今すぐにでも。 「泣くなよ」 俺、乱太郎に泣かれるとどうしていいかわからない。 そう言って、ひょっこり現われたきり丸は、涙にぬれた乱太郎に近づくと、気まずそうに頭をかいた。 「俺が言ったことで、泣いてるなら悪い」 今日は泣かせてばかりだと乱太郎の前にしゃがみこむ。途端にその両目からぼろり、と涙がこぼれて乱太郎は自分が涙を流していたことを忘れてしまった。 「くそっ、なさけな……」 言って俯いたきり丸はすぐさま涙を拭うと、驚きで涙の止まった乱太郎の手触りのいい髪をくしゃりと撫でた。そうして笑う。 「忘れていいよ」 だからもう泣いてくれるなと、きり丸は困った顔をする。その、作ったような顔に、乱太郎は「嫌だ!」と今度こそ口にして叫んだ。 「ら、乱太郎?」 「いやだ、きりちゃんが泣くなんて、いやだよ。わたし、私が泣くなら、そんなの、気にすることないけど、きりちゃんが、泣くなんて、私……嫌だよ」 きり丸の泣いたところなど、乱太郎は知らない。お調子もので、けれど冷静な性格の彼が泣くだなんて、思ってもみなかった。自分のことで泣くなんて、思ってもみなかった。 忘れていいよ、と言った笑顔の、綺麗さがこうまで悲しいものだなんて乱太郎は知らなかった。自分だけが悲しみに暮れる権利があるわけじゃないのに、ちいとも考えもしなかったのだ。 「乱太郎……」 今度こそ笑みを消したきり丸は、抑えていた涙をあふれさせると声を出して泣いた。こんなの、親を亡くした以来だと頭の片隅で思いながら。 二人してぼろぼろと涙をこぼし、ひどい顔だった。 すっかり気が落ち着いたころ、あたりは橙に染まり肌寒さを感じるほどになっていた。なにも言わずに忍術学園へと帰った。 「私、きりちゃんが好き」 忍術学園に帰る道すがら、今日の夕飯の話でもするような気軽さで口にした乱太郎にきり丸も「俺も、乱太郎が好きだ」と返す。それだけでよかったのだ。なにも変わったところなどないじゃないか、と乱太郎は心底安心して笑みがこぼれた。きり丸と心が通じても、乱太郎は未だに親思いのできのよくない忍者のたまごでしかない。 頑なに隠した心はこうもあっさりと露呈してしまった。 「ちょっ、きりちゃん! なにしてるの!?」 穏やかな気持ちになったのも束の間、いきなり握られた手のひらにびくりと肩を震わす。そのさまにきり丸は笑い「いいだろ?」とさらに手のひらに力を込めた。 「よ、よくない! よくないよきりちゃん!」 慌ててぶんぶんと手をふる乱太郎にきり丸は「いーやーだー」と頑なに放そうとはしなかった。 「こんなことで慌ててるようじゃ、接吻のひとつもできないな」 「せ、せせ接吻なんてしないよ!」 その言葉に「え!」と声をあげたきり丸は「接吻もなし?」と驚きに目を瞠る。それ以上に驚いた乱太郎は大きく何度も首を縦に振って見せた。その顔の赤さは、沈む太陽にも負けない。 「しょーがない、当分は我慢するか」 当分ってなに! と酸欠でくらくらする頭で声を張り上げた乱太郎にきり丸は歯を見せて笑った。 今度は逃げないように、固く手を繋いで。 fin. (影人さんより『燐火』) |