ご苦労だった、と声をかけると、気配は溶けるように消えた。 遁法も見違えるほど上手くなった、と思う。屋根裏を遠ざかるほんのわずかな気を辿りながら、巻物をしゅるりと解いた。 筆に墨を含ませて摂津のきり丸の名前の下に甲と書き込む。手傷を負っての帰還なので抜群の甲とは言いがたいが、務めの難易度と天秤にかければ良い方と言って差し支えないだろう。 庄左ヱ門に今回の実習の忍務の采配を任せた時から、きり丸がこの任につくであろうことはほぼ確信があった。実力や特性から見て順当なのはきり丸以外は組にいない。 忍務をあえて除外するという選択肢もあった。何、その分少しだけ忙しなくなるだけだ、と自分に囁いたこともある。迷う手は一人では誘惑に負けていたかもしれない。 「土井先生」 柔らかく呼びかけられて、はいと返事を返す。 「よかったですな。五体満足で帰ってきて」 「いやぁ…一時はどうなることかと思いましたがね。新野先生と保健委員の子たちに感謝です」 「派手に穴を空けてましたからな」 傍から見ていても痛そうだった、と鳩尾の辺りをさすりながら苦笑する実技教員に、同じ色を滲ませた笑みで、全くです、と頷いた。 一年生のあの子達を託されて以来、足並みを揃えて彼らを導いてきた盟友であり、偉大な先人の顔には、最近僅かに皺が増えた。得意の女装も白粉の乗りが悪いとお目にかかる頻度が減っている。 最近そういう些細なことに気がつく度に、胃の辺りが落ち着かないような感覚に襲われる。 「土井先生」 ややあって彼が口を開いた。 「何か悩んでいることがあるなら、吐き出してしまいなさいよ」 優しい眼差しに、何も、と微笑もうとして失敗した。 彼にとっては自分すらもクラスの生徒と同じ慈しむべき存在なのだ。それを知りながら甘んじてしまう自分はまだまだ半人前だ。 「庄左ヱ門に聞かれたんです。先生は忍び以外の道を考えたことはないのですか、と」 聡明な学級委員の拳は、きちんと揃えられた膝の上で震えていた。同級生を死地に送り出す役割を担う重責が彼を押しつぶさんとしていた。 「恥ずかしながら考え込んでしまいましてね。…以来、もしも、私が忍びじゃなかったら。あの子達に全く別の生きる術を教えられていたのだろうか、と…堂々巡りです」 いやぁ情けない、と笑いながら俯くと、彼はしばらく黙して、ゆっくり口を開いた。 「あんたは儂の生き方まで否定する」 「いや…!そんなつもりでは…!」 「いやぁ、いいんだいいんだ。あんたはあんたの思うようにしたらいい。色んな生き方がある。ここはそれを学ぶ為の場所でもあるんだから」 ね、といたずらっぽく目を細めた名教師に、悩める若造は深々と頭を垂れた。 了 (土井、山田) (2011/2/1) |