日常とはかくも楽しき、




 磨き込まれたカヤの盤上に並べられた白と黒のすべらかな石が、黒木庄左ヱ門の胸の前で組まれた腕をどうしてもほどかせない。
かれこれもう何時間こうしているのだろう。盤面を挟んで対峙する佐竹虎若は心の内で小さく呟いた。
 学園長の庵の鹿威しがカコンと一つ、落ちる音がした。決して近くはない距離だが、この学園で過ごした歳月で研ぎ澄まされた忍びの耳はその一際高い音を容易く拾った。もっと意識を集中すれば来客中らしい庵の中の様子も拾えるだろう。だが同じく研ぎ澄まされた忍びの鼻が拾いあげる香りが虎若の悪戯心を削いでいた。
 香ばしいのは…魚。きっとこの間水軍さん達が届けに来たばかりの活きのいい鰹が捌かれて七輪の上で油を落としているに違いない。
それから粒一つ一つがつやつや輝いて立ち上がったご飯と一昨日食堂のお手伝いをした乱太郎が体中から味噌の臭いをさせていたから漬け物、あと個人的にかりかりの揚げとカブの味噌汁が添えられていたらもうケチのつけようがない。ああ想像するだに涎がじわりとしみだしてくる。
鹿威しがまた一つ鳴る。ぐるりと骨を鳴らしながら首を巡らせるとふと傾けた視線が開け放した障子の向こうの日溜まりをとらえた。白く塗り込められた土壁の塀の下で今が盛りのツツジが溢れんばかりに赤や桃色の花をつけている。見つめていると、賑やかな足音をたてて井桁模様の装束を纏った少年が走ってきた。縁側に腰かける虎若達に気がついて慌てて頭を下げる。彼目掛けて飛んできた鞠が小さな頭を通り越してツツジの根本にてんてんと転がった。
いいから、と笑って手をふると、小さな顔いっぱいに笑顔を浮かべて鞠を拾い上げて駆け戻っていった。
入学式からしばらくは入学、ないし進級したて特有の慌ただしさに終始ざわついていた学園だったが、この頃ようやく落ち着いていた。まだお仕着せの感が拭いきれない井桁を纏った一年坊主達もようやく級友達と打ち解けて来たのだろう。忙しない毎日の授業の中、ぽかりと空いた陽気のいい休日を自分達と同様思い思いに楽しんでいるようだ。
遠ざかる小さな背中をほほえましく見送り、ぽつりとつぶやいた。

「あの子一年は組だったっけか…?」
「そう。会計委員と用具委員で迷いながら歩いてたら池に落ちて寝込んでる間に委員会決めがあって、どっちも埋まっちゃって仕方なく保健委員におさまったは組の子」…なんとも将来有望な不運っぷりである。ともかく答えが帰ってきたことに驚いて首を戻すが、盤面も庄左ヱ門もまるで動いていなかった。

「保健か。他の委員会の子まではなかなか覚えられないもんだな」

 年かなァ。額を軽く叩いて頬をゆるめる虎若に庄左ヱ門が黒曜石のような瞳を向けた。表情の読み取りづらいその瞳に悪戯な輝きを見つけた虎若は反射的に太い眉を潜めた。

「年、だけのせいにするのはどうかと思う」
「ウン年目の視力検査街道ばく進中ですから」
「今年も御愁傷です土井先生」

 二人揃って土井先生の部屋のある長屋の方角に向かって手を合わせていると、不意に溜め息が聞こえた。

「二人ともなにしてるの…」
「それは戦局のこと?それとも今の行動のこと?」
「庄ちゃんったら冷静ね!」

とりあえずツッコミを入れてから部屋の中に視線を向ける。今しがた日の降り注ぐ空間を見ていたから目が利かないなんて、忍には通用しない。だが彼はまた別格だ。部屋の薄闇から溶け出すように現れ、こちらに歩いてくる。そして虎若の脇に腰を下ろして盤上を見るなり小作りな顔を盛大に歪める頃には、学年内でもとりわけ鈍いと詰られる虎若もそれが級友の夢前三治郎であると認識出来ていた。
三治郎の遁法はなかなか独特で、一度その気になられると例え隣で腕をからめられていてもそこには何もないように感じてしまう。三治郎に言わせると主観と認識をちょっといじるだけなんだそうだが、山田先生ですら背後をとられた時は一瞬肩を強張らせていた。
まるで透明人間のように不意に消えたり現れたりするので後輩から夢前先輩は実は幽霊だとか囁かれて学園七不思議の一つになっているらしい。
まぁ本人が面白がってわざわざ夜中に厠付近を徘徊してみたり部屋に忍び込んだりして焚きつけているいるのだから世話はないが。

「ぼくが出ていってから全然動いてないってどういうこと」
「あれ、どこ行ってたの?」
「…あの時ぼく気配消してなかったよ」
「無駄だ三治郎。集中状態の庄ちゃんは石より鈍い」
「うわあ、じゃあ先に石と虎ちゃん並べて検証してみなくちゃね」

 あいかわらず華やかな見た目にそぐわぬいい性格をしている。拳骨の刑に処してへらぬ口を塞ごうとするが笑いながらひらりとかわされてしまった。脱力気味にほんとにどこいってたの、と聞くと、満足げな笑顔もそのままに伊助に頼まれて団蔵たちとお使いと返ってくる。

「村に市が立ってたからそこで用は足りたんだけど、兵ちゃんと団蔵が街に出るってうるさいからお目付け役に金吾置いて帰って来ちゃった」
「またかァ?」
「あいつら帰ってきたら三禁書き取り1000回だな」

 首をすくめる三治郎の言葉に、呆れた虎若の素っ頓狂な声が重なった。今さっき石に例えられた庄左ヱ門すら、苦々しげに口を開いてため息を漏らした。
学園のある山の麓の村から街道に沿ってやや足を伸ばした街は交通の便の良さから流通で栄える街として名をはせているが、同時に色街としても有名である。虎若たちも嗜む程度にはお世話になっているが、三治郎の話に出てきた笹山兵太夫と加藤団蔵ほど足しげく通ってはいない。
お目付け役として残してきたという皆本金吾はその実直な性格からあまりその手のことを良しとしないが、興の乗った二人を連れ帰ってこられるだけの器量があるとも思えなかった。何分、学園随一の剣の腕前を誇るへたれなもので。
三治郎はそれで、と声をあげた庄左ヱ門を見る。

「それで、伊助本人は?」
「今日は煙硝蔵の大掃除って言ってた。そろそろ長屋もしなきゃなって言ってたよ」
「げげ」
「あはは、虎ちゃん今にも首吊りそうな顔してるよ」

 そうできたらどんなにましか…!と地を這うような声を出して項垂れる虎若の頭を三治郎はよしよしと撫でる。
大柄な虎若を小柄な三治郎が撫でているさまはしばしば熊に跨がる金太郎に例えられているが、あまり深く追求しない方がいいだろう。微笑ましい二人を前に庄左ヱ門は肩の力を抜いた。今日はもう興を削がれてしまった。

「虎、投了」
「まだ手は残ってるぞ?」
「気持ちで負けた。実戦だったら命取りだよ」

 無表情に言う男に虎若は首を傾げた。

「意味がわからん。気が乗らないのなら封じ手しよう」
「だから」
「また気分が乗るときに続きをすればいいだろ。時間はたっぷりあるんだから」

な、と鷹揚に笑って、紙と筆を取りに部屋に行くと腰を上げた虎若の背中に庄左ヱ門は眉をひそめた。彼と虎若の消えた廊下の先を交互に見やっていた三治郎はややあって、庄左ヱ門の顔を覗き込む。

「難しく考えたってしょうがないよ」
「しかし」
「だって虎ちゃんだもの。そんでぼくら、まだ忍たまだもの」

ねぇー、と語尾を伸ばして笑み崩れた顔を思わず半眼になりながら見返す。思わず見詰め合う格好になっていると、いつの間に戻ってきたのか虎若の声が廊下に響いた。

「あー!何してんだお前ら!混ぜてよ!」

 内容は何を考えているのやらと脱力せんばかりだがその声があまりに切実だったので、庄左ヱ門はたまらず噴出した。同じタイミングで顔を覗き込んでいた三治郎がずるりと視界から消える。目で追いかけると、庄左ヱ門の腕に取りすがって肩を震わせていた。傍らのぬくもりの背中を優しくさすりながら、庄左ヱ門の頬は緩む。
え、俺?俺のせい?と虎若がうろたえるほどにますます大きくなっていく笑い声にあわせて、午後の風に撫でられたツツジがそっと揺れていた。






(佐武、黒木、夢前)
(2010/5/16)
(〜2011/2/14 拍手御礼)









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