薬缶




廊下で呼び止められ顔を向けると、そこには学園一綺麗好きな同級生が、頭の天辺から爪の先まで泥だらけにして、しかもその手に何故か薬缶を提げて立っていた。
個人的には致し方がないとしか言えないと思うのだが、自然に口の端がつり上がる。
比例して彼の顔が不機嫌を絵に描いたように歪んだので、慌てて引き締めた。
このまま笑い転げようもんならどんな目に合うかくらい、俺とていい加減に学ぶのだ。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、彼は手にしていた薬缶を突きだした。

「これ」
「これって?」
「薬湯。三治郎、今日調子悪そうだったろ」

本人にと思ったんだけど案の定姿が見えないから、と言いながら、彼は俺の腕に収まっていた空の盥に銅製のずっしりした薬缶を無造作に置いた。
熱が薄い白木越しに指先まで伝わった。
いかにも風呂に行くのですよという体を上手く繕えていると思っていた俺は、空いた手で頭をぽりぽりかいた。

「絶対保健室に引っ張ってくって鼻息荒い乱太郎振り切るのどんだけ骨折れたと思ってんだ」

病人と聞くと見境なしなんだから、と重たい息を吐いた伊助の出で立ちと薬缶が、ようやく一本に繋がった。

「それで、今回はどの辺に隠れてるか検討ついてんの?」
「うーん…まあ…気長に探すさ」

のんびり言って微笑むと、伊助は心底呆れたと言わぬばかりの表情を浮かべた。

「三治郎が嫌がるから言えないならそう言えよ、お前嘘下手なんだから」
「う…なんでわかるんだよ…」
「わからいでか。季節の変わり目だしな」
「うん…実習続きだったから、体力も気力も落ちてたみたい」
「全く。早く気付いてやれよな、お前も」
「俺、三治郎係になりたいなんて言ってないのに…」
「なんでだよ、光栄だろ。あの三治郎が直々に虎若を指名してるんだから。甘えさせてやんなさい。…今晩、乱太郎の手伝いで保健室に詰めてるから、手が空いたら寄れよ。しょうが湯作っておいてやるから」
「しょうが湯?三治郎じゃなくて俺に?俺、風邪引いてないけど」
「毎度毎度、お姫さまが教室に顔出すようになると入れ替わりに寝込むのはどこのどなたさんですか。きり丸が帰ってきたら次はお前が忍務だろ」

これ以上頭痛の種を増やすな、とぼやいて、伊助は踵を返した。
盥の中の薬缶は、もう腕を焦がすような熱さではない。器がこうなら、中の薬湯も然りのはずだ。
恐らく、これも極度の猫舌の三治郎に対する気遣いの一貫なのだろうと鈍い俺はようやく思い至って、もう一度頭に手をやりぽりぽりかいた。

「いやはや全く、お母ちゃんには敵わねぇ」





(佐武、二郭)
(2011/1/8)









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