この指先は誰より僕を知っている




「全治十日」

保健委員長の善法寺伊作の口から言い渡されたのは、川西左近にとって絶望的な宣告だった。

「と…十日…ですか…?」
「そう、十日。一応固定してあるけど、鍛錬とかしないようにね。先生には言っておくから、実技の授業も休むこと」

伊作は残りの包帯や薬草を手際よく片付けながら、事務的に対処を述べる。
右腕に巻き付けられた真新しい白い包帯に呆然と視線を落とした左近は、次の瞬間伊作に猛然と食ってかかった。

「そんな…っ困ります!今晩の実習はどうしても…!」
「左近」

たしなめるように名前を呼んだ伊作は、一つ息を吐き出した。

「今晩、二年生が大事な実習を控えていることは聞き及んでいるよ。でも、その実習があるからといって、君の怪我が劇的に良くなることはないし、君の怪我が良くならない限り実習への参加は認められない…どうしてだかわかるかい?」
「いいえっ」
「忍者はまず第一に考えなければならないのは、忍務の達成だ。その障害になるものは排除しなければならない。例えば君がプロの忍者で作戦の立案者だとするよ。君の部下もその作戦に関わっている。その状況で、君は怪我をひた隠して作戦を押し進めるかい?」

僅かに時間を置いて、左近の頭が力なく横に振られた。
真面目で一本気な後輩の心の機微を汲んで、伊作は、我知らず眉を下げた。

「僕もその実習を実際受けた身だから、実習がとても楽しみだったのを覚えてる。でもね、自己管理も忍者の仕事の内だよ。また機会はあるから、今回は我慢して」

いたわりの込められた言葉を視線を落としたまま聞いていた左近は、唇をきつく噛み締めた。


*


その夜間マラソン実習実施の通達があったのは、半月前のことだった。
マラソン実習自体は、一年生の内からそれはもううんざりするほどの回数こなしているので今更目新しくはないが、今回の実習は今までのどの実習とも明確に違う部分が一つだけあった。
実際の戦場がコースに組み込まれていたのだ。
もちろん戦場といっても今正に合戦の最中を突っ切るわけではない。大幅に迂回をしながらなのだが、万が一があってはならない。
実習を前に、本人の参加不参加の意思確認と、参加希望者の中から更に教員による選抜が行われた。
それそのものは単なる手続きでしかなかったが…もっともそういった手続きの伴う実習も初めてではあった…それ以上に意味を持ったのは、今日の裏世界で名を馳せる卒業生や、今学園の上級生として名を連ねる先輩は皆、この実習を潜り抜けてきていたということだった。
憧れの先輩にいざ続けと、ほぼ学年全員が凌を削り、最終的に実習参加の許可が出たのは両手の指で数えられる程の人数だった。
その中に自分が含まれていると知ったその日は、左近も喜びを隠しきれなかった。

包帯の巻かれた腕を持ち上げると、鋭い痛みが走った。
顔をしかめて自由な手で腕を庇った左近は、ひとつ息を吐いてから教室の戸を音を立てて開けた。
それに気が付いて、中に残っていた三人の生徒が振り返る。
三人は左近の姿に一瞬目を輝かせ、次いで腕の包帯に気が付くと表情を曇らせた。

「大丈夫だったか?」
遠慮がちに口火を切った久作に向かって、左近は大きく開いた手を突きだす。

「五日?」
「いや、その倍」

肩をすくめて見せると、久作が口をつぐむ。
場に沈黙が落ちた。ややあって、三郎次が立ち上がる。

「でも、治るんだろ?左近は実力あるんだから、また機会あるって」
「運も実力の内なら今のうちに忍者辞めた方がいいのかもな」

左近が吐き捨てるのを聞いて、三郎次までしおしおと項垂れてしまう。
意気消沈の二人を見下ろしていた左近の視線が伏せられた。
それに気がつきながら、四郎兵衛がおずおずと口を開いた。


*


長屋に差し込む西日が縁側に腰をかけた左近を照らしていた。
この日が落ちきったら、彼らは学園を出る。
四郎兵衛が声を発そうとした瞬間、後ろから同級生に声をかけられた。
同級生は四人のただならぬ雰囲気を敏感に嗅ぎとりかなり躊躇いながら、左近を除く三人を野村先生が呼んでいると告げた。
左近を除く三人を。
左近は側にあった柱にこつんと頭を預けて夕日を見つめた。
長屋に帰ってきた時は山のてっぺんに差し掛かったばかりだった夕日は、今はもうほとんど山の陰に飲み込まれている。
烏の群れが鳴きながら山へと進路をとる。
全てが橙に染まる中、意思を持って黒いその姿を目を細めて見送った。

ほら、行けよ、俺みたいに下手踏んで怪我して帰ってくるなよ。

無理矢理笑って言った左近の横を彼らはすり抜けていった。

やがて烏は見えなくなった。
それでも、左近はその場に座り込んでいた。
後ろから近付いてきた人物は、脱け殻のような左近に一瞬躊躇ったが、やがて横に座った。
左近の眉間に一本皺が寄った。

「何してんだよ、お前」
「うんと……お腹痛くて」
「厠行け」
「うん…後で行く」
「後じゃだめだろ。みんな、行っちゃうぞ」「うん…」

四郎兵衛の声が小さくなって途切れた。場に沈黙が落ちる。その間にも、夜は早足で近付いて、左近と四郎兵衛をじわりじわりと包み込んだ。
ややあって、四郎兵衛が口を開いた。

「左近は実習に参加出来ないことが悔しいの?それとも怪我をしたことが悔しいの?」

その瞬間、教室で分かれて以来初めて、左近の瞳が揺れたのがわかった。
左近は知ってか知らずか事のあらましを語り出していた。

今日の午後、左近は保健委員会の仕事で落とし紙の補充に一年生二人と回っていた。
いつも通りの仕事のはずだった。
左近は乱太郎と伏木蔵に指示を出しながら長屋や校舎を回っていた。
今思い返すと、不気味なほどトントン拍子に作業が進んでいた。
乱太郎も伏木蔵も一度も転けたり滑ったり絞まったり目を回したりしなかった。
高揚していた左近はそれを今日は運がいいのだと、そう思い込んで片付けようとした。
その答えは保健室に戻る最中に出た。全ての補充を円満に終えて、気が緩んでいたのだろう。乱太郎がふざけて伏木蔵の腕に抱きついた。突然の衝撃に驚いた伏木蔵はバランスを崩して、前につんのめった。そこがたまたま三年生が実習でつくった落とし穴があったことも、たまたま伏木蔵が鋏を手にしていたことも、一重に運が悪かったとしか言えない。
気がついたら左近は両腕を二人に伸ばしていた。左近の腕を掴もうとした伏木蔵は、強張った指先で鋏を強く握り締めたままだった。

「三郎次が言うように、自分には忍者なんて向いてないんだ」

左近がぽつりと呟いた。

「伏木蔵に泣きながら謝られたんだ。先輩は大事な実習の前なのにって」

色白な後輩は、爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り締めていた。

「次の瞬間、実習なんて、って口をついて出てたんだ。実習なんて、二人が怪我をすることと天秤にかけたら全くなんてことない…そう、本気で思った。後で手当て受けてる最中に頭が冷えて、ぞっとした」

左近は縁側から投げ出していた足を引き寄せると、立てた膝に顔を埋めた。ついで頭が左右に振られる。
長い黒髪がはさはさと波打った。

「忍者になりたいならあいつらを見捨てるのが正解だってことくらいわかってる…!でも出来なかった…!」

またしばらく沈黙が落ちた。
四郎兵衛は銀色の月が楽しげに弧を描く空に逃していた視線を戻した。
そして、ゆっくり言った。

「ぼくね、忍者には、ゆっくりなる。だから、そういう左近が大好きだよ」

言葉と一緒に、そっと肩に回された手の指先から伝わる温もりは、誰よりも左近を知っていた。







(川西、時友)
(2011/1/5)
(『You are stargatheR!』様提出)















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