母を知らない子供たち | ナノ
晴矢は昨日と変わらず苦しげだ。その寝顔はいつものような能天気なものでなく、眉間に皺を寄せ、お世辞にも穏やかとは言いがたい。起きている時も辛そうなのだからせめて夢の中くらいは安らかになれないものかと考えてみても、この寝顔を見ればそれが叶わないことは明らかだ。

やや弾んだ呼吸と時計の音だけが静かに響く。

人並み以上に健康な者が体調を崩すと厄介だ。晴矢は滅多に臥せったりしない。普段ならば熱があったとしてもある程度は元気な上に、養生しなければいけない不自由のせいでストレスさえ溜めているのだからそれはもう元気な病人なのだ。
それが今回は時期が悪かったのか、ウイルスとの相性が良かったのか、もう三日は寝込んでいる。
そうすると途端に頼りなく儚い存在のようになってしまうのだから、彼が周囲に振り撒く元気とは如何程のものなのかと思う。

ばさり、と音を立てて目の前の病人が布団をはね除ける。とても汗をかいている。
こういう時、布団をかけ直した方が良いのか退けた方が良いのか私には分からない。
ただ、汗が冷えるといけないのでタオルで静かに拭ってやる。
上気した頬に僅かに触れた指先からは病人特有の熱っぽさが伝わってくる。平熱が低い私には尚更かもしれない。
はりついた前髪を避けてやり、冷却シートの上から額に手を当てた。
熱がこちらに流れ込んでくるようだ。

そのまま見守っていると、心なしか表情が和らいだような気がする。エゴもあるだろう。こんなことで少しでも楽になるのならば。
温くなった右手から左手に替える。

「…ふうすけ、?」

突然、幼子のような曖昧な発音で名を呼ばれ、無性に心細くなった。それでも、不安を悟られないようなんでもない顔をした。

「何か飲むかい。」

顔を覗くと、病人らしい病人は小さく溜め息を吐いた。

「風邪が移るぞ、むこういってろ…。」

涙がうすらと浮かんだ瞳がそれでもはっきりした意思を訴えてくる。弱っている所を見られたくないのだ。
昨日まではこんな言葉も出て来なかったのだから、多少は回復しているのかもしれない。

「大丈夫。風邪をひいたら君に看病させる。だから早く治すと良い。」

何時もの調子で言ってみれば呆れた様子で再度、溜め息をつかれた。こんな些細なやりとりで僅かに安心する。
晴矢は何か言いたげにこちらを見ていたが諦めたように、またねる。と短く言ってから、それきり静かになってしまった。
気づいてみれば随分と肩に力が入っていたようだ。
無意味に天井を仰ぎ見る。

例えば。
我が子が風邪をひいたら、普通の、よくある、一般的な家庭では誰が世話をするのだろう。母親だろうか。感心な父親だろうか。もしくは、兄弟なのだろうか。
私達は、それをほとんど知らない。

例えば。
私は子供を持つだろうか。その時、私は世話をするだろうか。布団のかけ方も、知っているだろうか。まだこの手は冷たさを抱いているだろうか。熱で苦しむ額に手を当ててやれるだろうか

しかしこのとりとめもない思考は、同時に違う側面をもはらんでいる。もしかしたら薄情な、あるいは女々しいことを考えているかもしれない。
晴矢は、口では何と言っていても面倒見が良い。きっと子供も好きだろう。私も、人間を育てるという行為には興味がある。
そう、私達は、きっと良い……
眼の前の赤い髪を眺める。

考えるのは止そう。

晴矢が寝返りをうつ。シャツがひどく汗ばんでいる。次に起きたら替えさせて、何か冷たい物でも飲ませてやろう

そうして私はしばらく、この大きな子供の世話をしてみるのだ。

外では親子の声が聞こえる……。




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