林檎の手 | ナノ
しなやかな白鳥が、すべらかな音を立て、乱れのない静的な空へ羽ばたいた。
白鳥の背には赤い林檎が一つ。
林檎はニスのような甘い艶を湛え、ルビーの瑞々しい香りを漂わせている。
空はどこまでも穏やかで、白鳥を阻むものは何もない。
一面、青の広がり。
彼が気紛れにほんの少し、身体を傾けた拍子に、林檎は運命を準えて転がった。白鳥の背を離れ、何もない空へと解放される。白鳥と林檎が道を共にするのはここまでなのだ。


澄んだ湖に、林檎が飛沫すら立てずに真っ直ぐ落ちた。輪が次々に湖面を滑り、林檎は丁重に浅瀬へと運ばれていく。
湖底から、魚達が光の膜を不思議そうに見上げている。


成神健也は宛どなく森を散策していた。大きな湖に沿った道をそれとなく歩く。帰ろうと思えばすぐに帰ることが出来るような、そんな気ままな道のりだ。
湖面がゆらゆらと波打っている。
それがどうしようもなく気になって、そっと近づいた。
――林檎だ。
今まで見たことがないような完璧な林檎が、静かに流されてくる。思わずヘッドフォンを外し、BGMを消した。辺りでは鳥だけが囀ずって、木々の葉擦れの音はしない。
柔らかい木の葉を踏みしめ、ゆっくり近づいた。
林檎は湖の輪郭で揺れている。
腕を伸ばすと、抵抗なく手の内におさまった。まるでこのことを最初から知っていたように。
その艶やかな表面に鼻先を近づける。すると、豊満で濃厚な果実が身体いっぱいに広がった。
しばらく、丸くなった自分の顔を見つめた後に、成神はおそるおそる、歯をあて、そのまま実を噛み千切った。舌が麻痺しそうなほどの甘味に満たされて、思いがけずまじまじと、もう一度林檎を見つめる。果汁が滴り手首を伝いゆく。
よく見ると、林檎には小さな穴が空いている。中には暗闇が広がっている。気持ち悪さは無く……、ただただ好奇心だけが彼の目を見開かせた。
穴から何かが出てきた。……手だ。右手だ。小さな、小さな。
その手が、次いで出てきた左手が、穴の淵を次々にもいでいく。そうして、穴が広がったころには、濃密な紫の髪の青年が出てきた。
小さな瞳が、倍以上ある成神の両目を見つめてくる。大人びて見えるが、年は成神とそれほど変わらないのかもしれない。何もまとってはいない。ただ、身体中に林檎の甘い汁を滴らせている。同じくらいの注意深さで、こちらを伺っている。
林檎を持つ両手がわずかに震え、甘い香りが思考能力を奪っていってしまう。
成神はその青年が無性に愛しくなって、小さな小さな額にそっと口づけをした。青年は驚いたまま、身動きがとれないようだ。
優しく左手に彼を乗せる。我を取り戻した青年が、ようやく暴れ始めた。優しく抱き締めて落ち着かせたいのに、その術を持たないことに気づいて……、少年は悲し気な表情で、全身の愛しさを込めてその小さな人を握り締めた。
とても、瑞々しい音がした。


成神健也は、風呂場で丁寧に礼儀正しく手を洗った。
その日以来、彼の手からは林檎の香りがする。




林檎の手



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