その時、偉伊一位(イイカズイ)が感じたのは脳が揺さぶられ、呼吸が詰まるような感覚だった。
 吐きそうだ、と思い口元に手を当てたが、そこにポタポタと液体が垂れ落ちる。鼻血を出していた。
 周りにいた囲いの連中が動揺してざわめきだす。具合が悪いのですか、大丈夫ですか、そんな事を尋ねたが、一位す自身も現状が把握できず、戸惑うばかりだった。
 ふと、強い視線を感じてそれを辿る。肌を焼くような視線だった。
 視線の主を視界の端に捉えると、身体がぶるりと震える。一目でわかった。本能が直感した。恐怖にも似ている。
 視線が合った瞬間、全身が甘く痺れるような衝撃を感じる。
 それから周りで悲鳴が上がった。
 一位のスラックスが股間からゆっくりと黒いシミを作っていき、床に広がり裾野を広げたからだった。
 一位自身が理解できないまま、立ち尽くし、粗相している。
 目の合った彼が、何かを含むような笑みを浮かべてその場を立ち去るまで、放尿は止まらなかった。
 それが一位の、運命の番との出会いだった。
 先祖代々から続くαの家系に生まれた一位は、生まれた時からαの振る舞いを求められていた。
 頭脳明晰、容姿端麗、周囲の期待通りに、清く正しく美しく、誰もが憧れる人間に育つ。
 学園では他のαを押しのけて、首席で生徒会長を務めた。
 そんな一位は幼い頃から抑制剤を飲んでいた。発情期のΩによって事故・故意に関わらず強制的に発情させられ、性犯罪に走る事のないように。
 精通が始まってからずっとそうだった。本能を理性と薬で抑えつけるのは、当然の事だと思っている。
 けれども、運命の番を前にして、一位は崩れ落ちた。
 それまで、どんなΩの発情期にあっても薬のおかげでラットになった事はなかった。
 それが突然、強烈なフェロモンにあてられた一位の脳は混乱した。薬で抑えつけていた本能が理性を踏みにじる。
 脳は否定したが、身体は求めた。
 この世でたった一人の運命の番。
 その結果、一位は放尿をしていた。
 初めて彼と出会った日は、すぐに帰宅した。体調が悪かったのだろうと、誰もが腫れ物に触るような態度で接した。
 それまでが品行方正に生きていたから、α様が漏らしたらしいと揶揄する者もいたが、どちらかと言えば心配する人間の方が多かった。
 翌日に取り巻きに声を掛けられながら登校する。いつも通りを装ってはいたが、心の底で怯えていた。
 確信が持てないのに、直感だけが酷く訴えてくる。
 彼が運命の番で、だから自分はおかしくなったのではないかと、そんな不安は誰にも打ち明ける事が出来なかった。きっと何かの間違いだと、祈るしかできない。
 それは再び、一位の脳を揺さぶるような衝撃だった。
 心臓が高鳴り、耳鳴りがする。他の誰の声も視線も消えて無くなり、まだ姿を現せない彼で意識がいっぱいになった。
 廊下の突き当たりにある階段から上がってくるのがわかった。まだカケラも見えていないのに。
 科学的に言えば、番い同士にしかわからないフェロモンのせいなのだろう。けれど一位にとっては呪いに思えた。
 感動的で運命的な出会いも、望んでいなければそうはならない。
「ハッ、あ、」
 思わず声が漏れて、取り巻きの連中が一位を見やる。何か声をかけていたが、少しも耳に入らないし、階段から目が離せなかった。
 ダメだ、これ以上は。
 今まで感じたことのないそれは、やはり恐怖に思えた。
「ごめん、忘れ物をしたから」
 と、言ったつもりだったが果たしてちゃんと口に出ていたのかはわからない。それどころか、自分が今どんな表情でいるのか、どこを向いているのかもわからなくなる。
 とにかく踵を返して足早にその場から離れた。幸い誰も付いて来なかったから、しばらくしたところで一人足がもつれて転んでも恥はかかなかった。
 ガラガラ、ガラガラ。
 国語の資料室に入り、奥にしゃがみこむ。
 頭を抱えて、違う違うと呟いた。こんなの自分じゃない。こんなの運命じゃない。こんなの何かの間違いだ。
 誰もが運命を羨んだけれど、じゃあ運命との出会いがこんなものだとは、誰も教えてはくれなかった。知らないからみんな、羨むんだ。
「あっ……うそっ、くるな、あ、っあ、あっ」
 なにに対して言ったのか、一位自身もわからない。だけれど迫り来るそれを嫌がっても、止められはしなかった。
 ガラガラ。
「うっ、あ、あ……」
 しょろしょろ……。
 しゃがみこんだ一位のスラックスが濡れて、裾から床へと落ちていく。
 汚くて恥ずかしくて仕方ないのに、気持ち良くておかしくなりそうだった。
 ガラガラーーキュ、キュ、カラカラカラ。
 それは扉を閉めると、窓を開けて、それから一位の前に立ち止まる。
「窓開けたけど、まだキツい?」
「っは、っっあ、あっ」
 しゃがんで目線を合わせて、頬に手を当てられる。
 一位はぺたりとしりもちをついて、とめどない放尿が終わるまでしばらくかかった。
 彼はそれが終わるまで、一位の目をじっと見つめた。一位は恥ずかしさで身体が燃えるように熱くなる。けれどその熱が実は運命との出会いによる本能的ななにかがもたらしているものかもしれない、と、どちらにせよ羞恥的な現状を変えるものではない事を考えた。
「薬飲んでる?」
「ん」
「辛かったら、番いになってもいいよ」
 彼は自分の襟首を掴んでうなじを差し出した。献身的で、奥ゆかしい行為に一位の心が震える。
 けれど一位は彼の腕を掴んだ。声が震えて、吐き出せる言葉は少ない。
「いや、だ」
 一位の言葉を聞いた時、彼はうなじを差し出すために顔を背けていたから、どんな顔をしていたかはわからない。
 けれど、次に顔を向けて来た時には、意地悪そうに微笑んだ。
「俺もあんたがおもらしするところ見たいから、噛ませてやらない」
「あ、っあ、なに」
「勃ってる」
「あっ、ん、やだ」
 かちゃかちゃとベルトが緩められ、スラックスのチャックが降ろされる。濡れた下着から勃ち上がった性器が顔を出す。
 優しく握り込まれて、それだけで果てそうだった。
「人気のα様なんだから、ヤりたい放題だろ? 手コキなんてお手の物じゃないのか」
「そんなの、しない……」
 耳元で囁かれて一位の身体が震えた。苦しくて吐く息は甘い喘ぎを含んでいる。
 先程まで粗相をした汚いそこを、彼は楽しそうにしごいた。裏筋を圧迫され、先端を親指がすり潰す。
「あっあっっ」
 ビクビクと果てる瞬間に、指が穴を塞いだ。不自由な射精は長く続き、仰け反った一位は泣き濡れてヨダレを垂らした。
「おつかれ、一位」
 目元にキスを落とし、抱き起こされる。スラックスと下着と靴と靴下が脱がされる間も、一位はふわふわとした意識でされるがままだった。
「履ける? ああ、丈は悪くないけどピチピチだな」
 筋肉すごいから、と彼の手が太ももを撫でる。
「ん……」
 ボクサーパンツ姿になった彼は、自分のスラックスを一位に差し出し、靴も履かせる。
「とりあえず早退したら? ここ片付けとくから」
「君は……」
「俺はツレに手伝ってもらうから。な?」
 背中を押されて、一位は言われるがまま資料室を出る。
 そうじゃなくて、名前を知りたかったとは言えなかった。ゆっくりと歩いて教室に向かう。
 直に当たるスラックスに擦れて、彼の手の熱を思い出しそうだった。
終わり


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