朝焼け

 このときを待っていたんだ。ずっと。

「おはよう、永恋(えいれん)」
 少し冷たい指が左耳に触れた。その手に支えられて身体を起こす。黒の布で遮られていた視界が明るくなり、世界の色が脳を刺激する。
 映画で見た、貴族の暮らすお城の一室のようだった。天蓋付きのベッド、周りにかかる薄いレースのカーテンの隙間を縫って、窓から差し込む朝焼けが優しく降り注ぐ。
「今朝はトーストにミルクだ。トーストにはホイップとベリーを乗せてケーキみたく甘くしてあげよう」
 彼、秋愛(しゅうあ)は金の髪を靡かせて笑いかける。そのまま頬に、唇が触れる。おはようのキスだよ、そう耳元で囁き、今度は自分の頬を唇に触れさせる。
 それから秋愛の指は首の後ろ側を撫でた。彼の指紋認識でロックのかけられた首輪が、カチンと錠の外れる音をさせた。重力に従い、鎖のついたそれがベッドにじゃらりと落ちた。
 首の締まる圧迫感がなくなり、ふう、と深呼吸をした。そんな間にも、彼は首に唇を寄せる。鏡がこの屋敷にはないから、雨の日に窓に映ったのを見たきりだが、首に夥しい数の痕が付けられていた。それがひとつ増やされたところで、たとえ鏡があったところで、どれが今日付けられた痕なのかわからないだろう。
 衣服を付けない身体を、彼の手が撫でていく。ああ、薄気味悪い。冷たい彼の手が身体を弄るのは、まずで幽霊に襲われているようだった。
「永恋、今日は機嫌がいいようだね」
 彼の指が下半身に触れる。生理現象でゆるく熱をもったそこを、彼の指が撫で上げた。寝起きの霞みがかった脳の神経を直接抉られたようだった。身体には快楽に強く反応する薬が常に効いていた。そうでもなければ、この身体はもう随分快楽に浸りすぎて、鈍感になっていた。
「朝食を食べ終わるまで我慢できる?」
 君ははしたないからーーとでも言うように笑って、指は熱を高めさせようと刺激を与えてくる。
「あ……あ……」
 声が漏れる。ただの上下運動も、全身が震えるほどの快楽だった。もっと、もう、ああ。
「トーストがお待ちかねだよ。続きは朝食の後にしよう」
 パタッと刺激が止んで、もう少しで絶頂を迎えたはずの身体は、ドクドクと心拍数だけ上がって治らない。酷いいたずらだったが、久しぶりに朝勃ちしていた事に秋愛もご機嫌なようだった。先端に指の腹でちょんと触れて、まるで「静かに」と口元に指を立てるような仕草をした。
 小さな穴への刺激は別のものを引き起こさせる。ああ、トイレにいきたい。けれど、それも食事の後だろう。
 カチンと、足元から錠の外れる音がする。身体を拘束するものは、あとは後手で括られた手錠と、心だけだった。

 秋愛に攫われ、監禁されて10年が経った。この広い屋敷には他に人がいないらしく、食事も掃除も家事のすべてを秋愛が行っているようだった。
 自由はすべて奪われ、手足は拘束され夜には目隠しがされた。食事も排泄も彼に管理され、感情の起伏さえも薬で抑えられていた。生きながらの人形になって、この現状を嘆いたり怒り狂う事すら出来なくなった。
 このお人形ごっこの生活もいつかは終わりが来るものだと思っていた。警察が助けに来てくれるとか、秋愛が突然死んでしまうとか、飽きて殺されてしまうだろうとか。最悪な終わりでも構わなかったのに、10年という月日は過ぎていった。ここまであっという間だった、とは思わない。机に垂れた蜂蜜が床にこぼれたように、どろりと重く濃密な日々がゆっくりと流れていく。
 その間にも身体は成長を続けた。10年前はまだ17歳だった。身長も体重も増えて、180を超す秋愛の身長と並んだ。散髪や爪切り、体毛の処理だって行なう秋愛の執着には恐ろしいものがある。
 この生活の終わりが想像出来なかった。永遠に続くような気がした。だからそんな日々に、今日終わりを迎えようと、そう決めたんだ。

 屋敷の外には庭が広がっていた。周りを囲うようにバラが植えてあり、綺麗に刈られた芝生に寝転がされる。夏の空のような雲が、青のキャンバスを通り過ぎていく。
「永恋、青いバラは人の手で造られたんだよ」
 空を遮り、秋愛が顔を覗き込んで言った。手には青いバラがが一輪、それを髪に飾られる。
 屋敷のバラは全て青いバラだった。遺伝子に青を持たないバラは、かつてには不可能と言われていた青色で咲き誇る事も可能となった。
「綺麗だ。君みたいに」
 愛おしそうに目を細めて、顔を近付ける。秋愛の瞳に映ったのは、人工的に造られた青のバラと、望みのままに作られた人間。
 天然で生まれた秋愛の青い瞳の方がよっぽど綺麗だと、口にした事はないがそう思った。呑み込まれそうなその瞳が怖くなって目を瞑る。唇に重ねられた熱は熱い。
 秋愛の手が身体を撫でた。羽織っただけの薄いシャツ越しに、胸の突起を嬲られる。徐々に熱を帯びる身体は、先ほど寝起きで与えられた刺激を思い出す。下着を着けていない下半身は、ズボンの内側を濡らした。
「もう、直ぐにでも果ててしまいそうだね」
 ズボンの上から柔らかく揉まれ、もどかしい刺激に身体をよじった。種の詰まった双玉が手のひらに圧される。じわりと内臓が潰される感覚は恐ろしくも、よくしつけられた脳は快楽と勘違いしていた。直接に揉みしだかれたい。期待してキュンと引きあがる。
 秋愛は微笑みながらズボンの前を寛げた。熱り立ったそれを目にした瞬間から口を開く。もはや条件反射で、秋愛は当たり前のように、口にして滾りを押し当てた。
「よく舐めるんだよ、永恋」


「永恋」
 一日の終わりはいつも決まっていた。二人でテーブルに向かい合って夕食を食べる。朝と夜は秋愛に食べさせられていたが、夜だけは自分で食べる事を許された。
 スプーンだけを使い、すでに切り分けられていた肉や野菜、ライスを口に運ぶ。さすがにフォークやナイフは使わせてもらえなかった。その気になればスプーンだって凶器になりえたが、例えナイフを渡されたところで、それで秋愛を傷付けるつもりはなかった。味付けは秋愛好みにされていたが、もうずっと食べているから、むしろ身体に馴染んだ味だった。
 スープを口に一口啜る。生クリーム仕立てのコーンスープは甘く口に広がる。思ったより熱くて舌が焼けたが、気にせず食べ続けた。じりじりひりひりと痛む舌でサラダを頬張り、酸味の強いドレッシングが滲みる。
「また火傷したのか」
 顔をしかめてしまったのだろう。秋愛は微笑みながら手を伸ばした。頬を撫で、顎を掴む。もう、いつものことだった。いつも熱いスープで舌を焼いていた。口を開いてみせると、当然とばかりに舌を絡める。
 ひりひり、じりじりと痛む。
 右手をそっと動かし、彼のスープに青いバラの花びらをひとつ沈めた。唇が離れそうになるのを、自ら舌を絡めて引き止める。嬉しそうに目を細める秋愛の、深い口付けに息が止まりそうだった。花びらをが見えなくなっても終わらないキスは、秋愛が満足するまで続いた。
「料理が冷めてしまうね」
 秋愛は笑いながら、それでもスープを啜った。

 眩しい朝焼けは誰に遮られる事もなく訪れる。身体は自然と目覚めたが、いつまで経ってもあの声も、冷たい手も触れては来ない。
 不自由な身体で寝返りをうち、隣で眠るそれに触れる。冷たい塊のようなそれは、目隠しで見えはしないが、秋愛だった。秋愛は死んだのだ。
 この屋敷のバラには毒があった。元々はただの美しいバラだったのだろう。それはいつしか毒をもった。秋愛が毒を作り上げた。
 バラの下にはたくさんの死体が植えられていた。何代も昔の先祖から、何度も何度も繰り返されてきた。この屋敷に連れ去られてきたたくさんの人間が、美しいバラの下に眠っていた。花弁ひとつで人を殺すほどの毒。もはや呪いだ。

 ベッドに頭を擦り付け、目隠しを外す。柔らかい光が相変わらず世界を照らす。隣で眠る彼は安らかな顔をしていた。とても死んでいるようには見えない。もともと冷たい指もそんなに変わらない気がした。
 後手に拘束された手を無理に動かして、手錠の鍵に彼の指を触れさせた。カチンと錠が外れる音がする。

 全ての拘束を外して起き上がる。不思議な朝だった。
 この時を待っていたんだ。ずっと。
 そのはずなのに、昨日までとなにかが変わった気はしなかった。適当にシャツを羽織り、寝室から出る。廊下を歩き、キッチンへ。
 自由に歩いたことはなかったのに、物のありかは不思議とわかった。棚からパンを取り出し、トースターへ入れる。焼き上がるまでに、冷蔵庫から生クリームを出してホイップする。冷蔵庫の中にはイチゴが入っていて、洗って葉を落としておく。

 これからどうしよう。甘いトーストを食べながらぼんやりと考えた。窓の外には青いバラが広がっている。そこに、一人の少年が立っているのが見えた。青いバラを珍しそうに見ている。
 綺麗な少年だった。その少年はしばらく眺めていると、どこかへ行ってしまった。

 久しぶりに外へ出ようか。きっと、良いものがみつかる。あのバラのように綺麗なものが。そんな予感に心が疼いた。

終わり


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