床に散らばった教科書、ノート、文房具。叩きつけられ踏まれ、ぐしゃぐしゃのゴミになっていた。
 俺は何事もなかったみたいにそれらを拾い上げ、机に詰め込む。そして机の中の気持ち悪い感触にゾッとした。慌てて手を引き抜くと、よくわからない液体が付いている。
 気持ち悪い、なんだこれ、気持ち悪い、気持ち悪い。
 手を洗いにいかないと、立ち上がり扉に向かうと足を誰かに引っ掛けられつんのめる。倒れなかったけれど無様で、誰かが嘲笑った。
「基(モトイ)、授業始まるぞ」
 前の扉から入った教師に言われ、焦りながら答える。
「手を、洗ってきていいですか」
「ん?そういうのは授業始まる前にいっとくんだぞ」
「すみません」
 言いながら教室を出て、廊下を早足で抜けてトイレに駆け込む。
 手洗い場で蛇口を捻り、手を洗い流した。石鹸をつけて、洗い流して、また石鹸をつけて、洗い流した。
 洗っても洗っても汚くて、気持ち悪い気がした。教室にも戻りたくなかった。ぼたぼたとどこからか水滴が垂れている。
 俺はいじめに遭っていた。

「基?」
 背後から声をかけられ、大げさにびくっとしてしまう。
 声の主は幼なじみの 東寺(トウジ)だった。
「基も腹壊したの?ぼくちょーお腹痛くってさあ」
 ケラケラ笑いながら個室に入り、それから事を終えて出てくる。俺の隣に並んで手を洗う。
 ほんの少しだけ、平気になった気がした。
「なんでもない」
 手洗いをやめて水を払うと、東寺がくしゃくしゃになったハンカチを差し出してくる。
「そっか」
 なんでもないなんて嘘を、東寺は全力で信じて笑ってくれる。少しだけいつもより悲しそうに笑った。
 それがわかるから、胸がズキッと痛くなって、目からはぼたぼたぼたぼたと涙が溢れて止まらなくなった。
「やっぱ嘘。つらい、むり」
「そっか」
 東寺はなお一層笑って、俺を強く抱きしめた。
「ぼくがいるから、もう大丈夫だよ」
 東寺の言葉に、俺は泣くのを止められなかった。ずっと、東寺は俺を心配していた。そのたび、俺はなんでもないと嘘をついた。
 でももう大丈夫だと、東寺が言うから、そうなんだろう。
 抱きしめる東寺の、手が背中をぽんぽんと叩く。赤子をあやすみたいに、子供を慰めるように、俺を安心させるために。
「ふ……うあ……うあああ」
 俺は声を上げて泣いた。廊下中に響いて、わんわんと反響していた。そんな俺を、東寺はただ抱き締めた。どこか嬉しそうにしている。いつのまにか俺は、泣かないように生きていて、すると笑うこともできなくなっていた。
 東寺の前ですら笑うことも、泣くこともできなくなっていた。いつぶりだろう。あとからあとから涙が溢れてくる。
 感情を出す、そんな当たり前のことが、今の俺には心地良い。東寺はそれを喜んで、受け入れた。

「基、行こう」
「うん」
 東寺が俺の手を握って歩き出す。俺は泣きすぎてふわふわとした頭で、東寺の後を引かれるまま歩いた。
 どこに行くんだろう、ということを考える事もなく、東寺について行くと俺の教室を過ぎていく。
 ふと横目で見ると教師と目が合い、教師は教室から出て来る。
 カラカラ、カラカラぴしゃん。閉まった扉の向こうで、他の生徒たちが好奇の目を向けていた。
「こらこら二人とも、授業中だぞ」
 先生は、東寺が握ったままの俺の手を見て、俺と東寺の顔を交互に見た。小さくため息を吐き、もう一度俺を見る。
「恋愛にとやかく言うつもりはないけど、今は授業中。そんな堂々と、」
「先生は」
 東寺が言葉を遮り、喋りだした。先生は言葉を遮られた事に少しむっとして何かを言おうとするけど、言葉を飲み込んだ。
 東寺があまりにもまっすぐな視線を先生に向けていて、それは畏怖すら感じさせた。
「基の声が聞こえましたか?」
 いつもの笑顔とほとんど変わらないのに、俺は東寺が少し怖くなった。握る手は優しいのに、東寺は、どこか怒っている。空気がピンと張って、緊張感に呼吸すら控えめになる。
「声って……」
 先生はちらりと俺を見た。
「なにか言ったのか、基?」
 ズキッと胸が痛くなって、反射的に繋いだ手に力が入る。
 わかっていた。狡猾で陰険な奴らだから、俺がいじめられていることは、いじめる側と俺の当人しか気付いてはいない。
 わかっていたけれど。
「ぼくには聞こえたよ」
「なにをわけのわからない……あのなあ」
 東寺の物言いに、先生はついに怒ったらしい。まず気に食わないのだろう、俺と東寺の繋いだ手を離させようとするから、俺は東寺を強く握った。
「東寺、いいよ、もういこう」
「うん」
 縋り付く俺を、東寺は引いて歩く。
「二人とも停学処分だぞ」
 俺たちの背中に先生の言葉は、まるで届かず地面に落ちた。東寺が俺に、聞いた。
「なにか最後に、言っておく?」
 少し考えて、振り返って、口を開く。
「こんなところ、糞食らえ、だ」
「あは、くそくらえ」
 それから二人で駆け出した。東寺が俺の手を握るから、俺は何一つ怖くなかった。

 いじめなんかで、と、人は言う。
 あなたは俺じゃないから、わかりはしないだろう。
 嫌なら逃げればいい、と、誰かは笑う。
 一人で戦い、一人で逃げるのは、暗闇を彷徨っているようだとは思いませんか。
 抱え込まず話したら、と、知った顔で憐れむ。
 飲み込んで耐えて、気付いてくれと縋った。気付いて、助けて。助けて。
 説教はいらない。憐れみも知らない。同情も言葉も欲しくはない。
 ただ、手を引いて、連れ出してほしい。ここから、ここじゃないところへ。

「基、もう大丈夫だよ」
 青い空の真ん中で、東寺が眩しいくらいに笑った。
 狭い狭い教室という世界から、東寺が俺を連れ出した。
「ぼくがいるから、なにも怖くないでしょう」
「うん」
 東寺に手を引かれるまま、俺は、俺たちは、どこにでも行けそうだ。

終わり

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