「塩谷(シオヤ)くんさあ」
ある日のコンビニバイトの事だった。大学生の俺は学費の足しにするためバイトを始め、深夜のシフトに入る事になった。
深夜シフトは客も少ないし割り増し賃金になるからやってみない、と店長に唆されて。
やってみればなるほど、店長の言う通り客は少ないし、楽でいいな、と思ったのは最初の数日だけ。
問題は一緒にシフトに入る、皆戸(ミナト)さんだった。
特別、何かしたりやったりするわけではない。就職浪人三年目の皆戸さんは、コンビニバイト歴10年のベテランで仕事は早いし、至って真面目な人だ。
しかし、いかんせん会話がなかった。
普通、一緒にシフトに入って暇だったら何かしら話をするものだ。けれど、これまで2週間で8回シフトが重なったが、皆戸さんから会話を切り出してきた事は一度もなかった。
話しかければそこそこ返事をしてくれるのに。恐らく極度のコミュ障なんだろう、そう思っていた。
そんな時だった。
珍しく、いや、初めて、皆戸さんが俺を呼んだ。会話を辛うじてしても、名前を呼ばれた事はなかったから、むしろ名前を知っていたのか、とさえ思った。
レジで、直前までいた客から受け取った小銭をしまっていた俺は一瞬驚きで、聞き間違いかと疑ったが、顔を向ければ真っ直ぐとこちらを見ていた。
本当に皆戸さんが、俺に話しかけている。
妙に興奮して、50円玉を100円玉のケースに入れてしまった。
「は、はい」
同じ銀色で分かりづらくなったそれをよそに、俺は皆戸さんに向き直る。一体なにを言われるんだろう。
若干ドキドキしている自分がおかしい。
「塩谷くんさあ、おしっこ我慢してるでしょう」
「……え」
やっぱり聞き間違いかな?そう思ってあげたのに、皆戸さんは追い討ちをかけるように言った。
「おれ、わかるんだよね。おしっこ我慢してる人が」
「は、はあ……」
なんと答えていいのか。もはや、気が狂っているのだと思う。就職浪人大変そうだし、深夜シフトしかしてないから生活時間は完全に夜型だろうし。皆戸さん、あなた疲れているのよ。
現実逃避したい俺の腕を、いつの間にか距離を詰めていた皆戸さんが掴んだ。
「塩谷くんから、匂うんだよね」
「えっ、何がですか」
「おしっこ我慢してる匂い」
それはつまり、アンモニア臭だろうか。
至極真面目な顔で言ってくる皆戸さんに、背筋がゾワッとした。
そしてなにより、確かに尿意を堪えていた自分がいる。トイレに行こうかと考えるたびにちょうど客が来てしまうから、トイレに行くチャンスを逃し続けてかれこれ二時間。
もう、いっそ仕事が終わるまで我慢していようかと諦めかけていたところに皆戸さんからの指摘。
忘れつつあった尿意が一気に蘇る。
「当たり?」
「ちょ、」
皆戸さんの手が俺の腹部、膀胱のあたりを軽く撫でた。下腹部は張っていて、限界を主張している。
「……そーですよ、トイレ行きたいんで、行っていいですか」
バレたというか、わかってくれたなら今度は開き直ってトイレに行けばいいだけの話。
それなのに皆戸さんの手は一向に離れない。それどころか、掴まれた所の骨が軋むくらい強く握られていた。
「え?ダメに決まってるだろ。おれ、本直してるから。ここにいてね」
「は?いや、」
皆戸さんは一方的に言うと、雑誌コーナーに行ってしまった。店内に唯一あるトイレに行くには、皆戸さんのそばまで行かなければならない。
皆戸さんのしたい事がわからなかった。俺にトイレを我慢させて、これはもしかして、イジメ……?
トイレに行こうか、それともやっぱり我慢しようか迷っていると客がふらっと現れ、夜食や飲み物を買って行った。
そのおかけで結局トイレに行けない。
さっきまでは何ともなかったのに、パンパンに張った膀胱で腹が苦しくて、若干気持ち悪くなってきている。
皆戸さんなんて気にしないでトイレに行けばいいのに、今はむしろトイレに行くために皆戸さんに近付く、それが怖かった。
さっきまで掴まれていた手首には赤黒い痕が残っているのが目に付いた。
「……は、あ……」
いよいよ尿意が限界になった頃、今度は珍しく客が続いてしまった。
皆戸さんもフォローでレジを開けてくれたけれど、尿意は強まるばかりだ。
温めますか?と言いながらおしっこがしたいと心の中で思う。
雑誌と飲み物は分けますか?と聞きながら、もう漏れると心の中で叫んだ。
おしっこしたい、おしっこ、おしっこ、おしっこ。もうそれしか考えられない。
じわっ。
「っあ、の、えっとおつり、32円です」
変な汗が出る。一方で、股間が少し濡れた気がした。そんなわけはない。そんなはずが。
「いらっしゃいま、……」
ようやく最後の一人、と思ったらそこに居たのは皆戸さんだった。置かれた商品は、トラベル用かなにかの、男物の下着。
嫌がらせか、嫌味か、とにかくバーコードを通すのを戸惑っていると、千円札を出した。
「意地悪言って悪かったよ。パンツ、おれが買ってあげるから穿き替えてきな」
なんで、なんでわかるんだよ、と口にしそうになって必死に堪えた。けれど、俺は驚いた表情をしたらしい。
皆戸さんは口角を上げて言う。
「言ったろ、おれ、わかるんだよ」
ぞっとしながら、パンツにお買い上げシールを貼って会計を済ませると、皆戸さんは入れ替わりにレジに入った。
トイレに行ってきなよ、と無言で促された。
「すみません」
蚊の鳴くようなか細い声しか出なかった。
トイレに向かう足元がおぼつかない。今しがた購入されたパンツを、少し濡れたそれと穿き替える。
どうしてこんな事になっているのか、泣きたくなった。
穿いていたパンツはどうしようか悩んで、汚物入れに捨てる事にした。ちょうど古くなっていたし、ここがお前の墓場だ。そんな事を思いながら。
トイレから出ると、レジにいた皆戸さんはそっとレジを離れ、また雑誌コーナーの片付けに戻った。
俺はレジに戻り、半ば放心しながら時間が過ぎるのを待った。
皆戸さんがトイレに入り、何かポケットを膨らませてホクホク顔になっているのは気のせいだと信じながら。
終わり
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