「ぐっ……げほっげほっがっ、あ、あ、はあ、はあはあはあ」
 数十秒振りの酸素に肺が痛い。永遠とも取れるたった数十秒。水で濡れた顔では、涙も滲んでわからない。
 手首を背中で拘束され、後頭部の髪を鷲掴みにされ、床に置かれた桶に顔を押し付けられる。人はたった数センチの水で死ねる。
 世界はぼやけ、スポットライトの光が万華鏡のように見えた。
 客が何か喚きながら、髪を掴む手に力が入るのを感じる。息を整え備えようにも、酸素は足りていない。ただ、恐怖に襲われるだけだった。
 苦しい。
 鼻から水が入るとか、そういうのはどうでもよかった。もがこうにも、身体のどこにも力が入らない。死ぬ。死ぬんだ。
 そう思った瞬間に顔を桶から上げられ、雪崩れ込む酸素にむせ返る。死ぬ程苦しい。けれど、死ぬことは許されない。
 目減りした桶に水が足される。まだ続けてもいいよと、この責め苦をどうぞと、いっそ死ぬまで続けてどうぞと、そう言われている気がした。
 いっそ死にたいのに、許されない。これは罰なのか。生まれた罰なのではないかと、最近はそのことばかり思った。

「お疲れさん、5(イツ)」
 店長が呼んだ。ここは完全会員制高級クラブの奥底にある、名ばかりのSMクラブ。実際には客が人相手に死なない限り死ぬほどの苦痛を与えるだけのための部屋。名前の代わりに与えられる愛称、最近来たばかりの俺が若い番号なのは、そこが欠番だからだ。
「酷い顔だ」
 気管に入った水でぜーぜーひゅーひゅーと咳き込み嫌な呼吸をする俺を、店長は笑った。ああ、酷いだろう。なにもかも、酷いんだ。
 手首の拘束を解かれ、牢に戻される。身体が弛緩して動かない俺は、店長に抱き上げられ、連れて行かれた。
 店長から甘い匂いがする。それを嗅ぐと泣きたくなった。肌に触れる熱も、身体を支える手も、それら全てが胸を締め付けるようで、泣きたくなった。
「おやすみ5」
 店長はそう言って牢に鍵をかける。
 酷いと思った。
 ここに入れられたのは、付き合っていた女が◯ヤさんで、騙された挙句金を巻き上げられ、それでも足りないからと売られたからだ。それからは知らない金持ちから苦痛を受けるだけの毎日。
 酷いと思った。俺を騙した女も、苦痛を与えてくる金持ちも憎い。けれど、一番恨めしいのは店長だった。
 ここのどこにも、俺を人らしく扱うものはない。それなのに、店長が側にいると、俺は人に戻されてしまう。
 酷い。人でないものになってしまえばきっと楽なのに。俺はまだ人でいる。

「どうしようねえ、5の常連さん」
 何時間経ったのか、目覚めて、店長の声が微かに聞こえた。誰か、緊縛師か専属医師とでも話しているらしい。
「次は首を絞めたいと。あれはもう、限界だね。ああ、嫌だね、行きすぎた支配欲というのは」
 切れ切れに聞こえる店長の言葉は、それでもたしかに俺に届いた。
 ここにいる人間には大抵常連が付く。どんな客が付くのかは運だ。俺の常連も最初は鞭打ちだとか、蝋燭を垂らすだとか、苦痛を与える事を目的としていた。
 それが、最近はどうだろう。より、より深く死に近づいているように思う。
 最中は店長が見ているから、最悪の場合はストップがかかるという。けれど、昨日、なのか、まだ今日なのか知らないが、先はどうだっただろうか。いつ死んでもおかしくないところから、一歩踏み越えたところまで、赦したではないか。
 結局店長は赦すのではないか。
 結局、俺は人などではなかったのではないか。

「どうしようねえ」
 店長が言った。
 殺す事は支配欲だという。ならば俺は店長に殺して欲しい。最後の生命は、店長に刈り取られたい。
 そう願ったところで、きっと叶いはしないのだ。
 俺は許されない。
 きっとそれが、俺への罰だから。

終わり

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