2024/04/27


 深い霧の中にいるようだった。空気はひんやりとしていてどこか心地良いが、水中で溺れているような気さえする。
 遠くまで靄がかかり、されどころか一歩先がどうなっているかわからない。進むことも戻ることも躊躇って、どこにも進めない。
 記憶を失った僕は、自分が何者なのか憶えていなかった。それはまるで、今いる場所が広い草原なのか、切り立った崖の上なのかもわからず、しかもいつか崩れ落ちるかも、という不安が付き纏っていた。
 そんな僕を、甲斐甲斐しく世話してくれる人がいた。『コウ』は、僕を「番(つがい)」と呼び、だから献身的に世話してくれるという。

「皐(さつき)」
 ベッドの上で目覚めると、コウが身支度を全て整えてくれる。それがひと通り済んだら、僕の名前だと言う「皐」と呼び、目を細めて見つめてくる。
 愛おしいと、言葉からも視線からも感情が溢れ出ていた。
 僕には「皐」という名前に馴染みがなく、これまでのコウとの関わりも知らないから、彼からの感情にいつも戸惑ってしまう。
 横に座る彼はチュッと僕の額にキスをして、それから僕の肩を掴み、僕の頸に歯を立てた。
「うっ……ぐ……」
 皮膚が切れ、ギリギリと歯が食い込む。その痛みに僕は耐え切れず声を上げ、全身が強張った。
 熱い。痛い。このまま食いちぎられ、死んでしまうのではないかと思った。一生永遠に痛いんだろう。恐怖が血管を通り、全身に巡っていく。

 しばらくして気が済んだのか、コウの口が離れていった。それでも頸はヒリヒリ、ジンジンと痛む。
 口元に血をつけたコウが、僕に口付けた。
「ん、んん……」
 脳が麻痺していく。痛いのか、苦しいのかわからなくなっていく。
 ここはやはり、霧の中のようだった。
「ああ、粗相してしまったね」
 痛みの中か、口付けの後か。僕の身体は言うことを聞かないので、ベッドの上にシミを広げていく。
 コウはどこか嬉しそうなくらいで、僕のそれを後始末し始めた。

続く

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