07.世界最初の拍手と夜
古本屋に住む少年シロとクロの話。
雨の日の古本屋は客が多い。
近くを通った人や待ち合わせをしている人が、雨宿りのためにすいすい吸い込まれてくるのだ。
「拍手喝采!」
雨の降るザアザアという音を拍手に例えたシロが、すべての演奏を終えた指揮者のように雨に向けて自慢気に両手を広げる。
「シロ、濡れるぞ」
「うわ本当だ、すごい濡れた」
「傘ささないで店先に出るからだろ」
「ちょっと外の様子見に行ってみただけだよ」
俺はシロにタオルを投げて、本を持ってきた客にレジを打った。
古い木造の店が雨でギイギイと音をたてる。
「ねえクロ、世界で最初に雨を体験したのって誰なのかな」
「え」
「世界で最初に雨を体験した人だよ」
シロがふと閃いたようにレジに潜り込んで来た。
「そんなの知るかよ」
「じゃあ世界で最初に夜を体験した人は誰?」
「何が言いたいの」
「初めて夜を体験した人は、いつか夜が終わることを知っていたのかなって」
どう思う?とシロがにやりと笑う。
初めて夜を体験した人は、初めて雨を体験した人はいつかそれが終わって太陽がまた顔を出すことを知っていただろうか。
「さあ…知らなかったんじゃない?初めてなら」
「じゃあ、世界で最初に息をした人はいつかそれが止まることを知ってたのかな」
「今日はどうしたの」
「一番最初の終わりの予感だよ。オレらって誰からも雨が止むとか夜が終わるとか教わらなかったわけでしょ?だけど知ってるってことは、もしかしたら人間ってそういう風に作られてるのかもよ」
「そういう風?」
「最初から終わりがあるってことがノーミソの中に貼り付いてるの」
貼り付いて初めて『人間』として完成するんだったりして。
シロはさらに続ける。
「いつか死ぬことの予行練習なんだよ、雨も夜も。いつか必ず終わりがくる自然現象を日常に組み込んで、それで人間も死んじゃうって予感させるんだ」
「シロ」
「なに」
「まだ髪の毛濡れてる。拭け」
「え」
シロが慌てて頭をタオルでわしゃわしゃと拭いた。
シロの言いたいことが何となく分かるような気がして、分かりたい歯痒さと知りたくない恐怖心が俺の頭の中でぐるぐる回っている。
終わりの予感。
「すみません、レジいいですか」
茶髪の女性が雑誌を持って現れたのでレジを打つ。
雨はまだ降り続いていて、「拍手鳴り止まないね。アンコールですかあ」とシロが間延びした声で言った。
いつか終わるのだろうか。
こんな明日には忘れてしまうようなささやかな365日もいつか終わって、誰からも俺らがいたことなんて忘れられて、俺らが笑ったり怒ったりしながら住んでいるこの店もいつかただの朽ちた木材になって取り壊されて、知らない誰かが踏むだけの物言わぬありふれた地面になるのだろうか。
この場所が。
鳥肌がたった。
だって俺らは今ここにいるのに。
ただ、俺らだって多分多くの人のことを忘れていた。
ふとシロを見ると、ギシギシ鳴る家鳴りや拍手の続く雨の音を、目を閉じてまるで好きな音楽でも聴くように微笑んでいる。
「ねえクロ」
「なに」
「まだ誰も知らないこと教えてあげようか」
「え」
「誰のノーミソにも貼り付いてないこと。まだ神様とオレしか知らない」
「なにそれ」
シロが得意気に言った。
「なんとなんとなんとー…今日の夜ごはんはオムライスでーす!」
「は…」
肩透かしを食らったように心に何か空気のようなものでずぼりと穴が空く。
というか、つまりは力が抜けた。
「あーあ、これでクロも知ってしまったね」
シロがにやりと笑う。
「誰も知らないことって、え、そういう…」
「今の今までオレと神様しか知らなかったでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「なに、クロだってオレの知らない神様と自分だけの秘密が山ほどあるくせに」
なんだかさっきまで考え込んでいたあれこれが、一気に馬鹿馬鹿しくなって思わず笑ってしまった。
雨はいつか止む。
夜はいつか終わる。
オムライスはいつか食べられる。
俺らはいつか忘れられる。
それでも、終わるということはちゃんと生まれてきたのだ。
「えっ、何笑ってるの」
「何でもないよ」
「ふーん……あ!」
シロがはっと顔をあげ、『静かに』のポーズをした。
耳を澄ますが何も聞こえない。
何も聞こえない?
「ああ、雨が止んだのか」
「正解!よし、外へ急げ!」
「なんで?」
「クロ知らないの?雨が降ったあとは虹が出るんだよ!」
客はまだ少し残っていたが、シロに引っ張られて外へ出た。
すっかりびしょぬれの商店街で、太陽が幾つもあるようにそこら中がキラキラ光っている。
「虹色さん、こちらシロとクロです!応答願いまーす!」
シロが空に向かってなにか通信を始めた。
苦笑しながら辺りを見回す。
すっかり澄みきった青い空に、青以外のカラフルな橋を見つけるまでそう時間はかからなかった。