雪平さんが帰ると言われても私と翔太は寝たふりをしてやり過ごした。それから、惚けて雪平さんは?と聞くこともしておいた。翔太は引越しをすると聞いた時に拒絶したらしい。翔太は意地っ張りで頑固。だからと言って面倒見が良くないわけではなくむしろ逆。面倒見がいいからか男女問わず翔太を囲む。友達と呼べるものは翔太には沢山いる。私だって少なくはないがいる。離れたくないと思う人が私たちにはいるのだ。


「母さん」


「はぁい?」


言おうと思っていたのに言えなかった。娘息子に黙っていたことを、幸せになる報告をしたのだ。浮かれて鼻歌など歌う気にもなるだろう。こっちはそわそわしているのに。


「……いや、何でもない」


「そう?」


言い出せる訳がなかった。母さんの幸せを否定する資格なんて自分にはなかったからだ。
部屋に駆け込んで堪えきれない涙を零し、小さく嗚咽を漏らした。


*****


その日、ちゃんと真面目に朝練に出た。一番に体育館についたのは久々だった。竹刀を握り込み、無心で振るった。


「やぁぁぁああああ!」


ああ、辛い。痛い。
ついて行きたくなんてない。嫌だ。
離れたくない。誰と?


「っ……笠、松くん」


扉が開いて現れたのはツンツン頭の笠松くん。何で、と口を開けば頬をかきながら小さく彼は


「奇声が、聞こえたから」


「な!?あれは、相手を威嚇する為の声だ!奇声じゃないッッ」


「そ、そうなのか?」


「そうだ」


奇声と言われて嫌だったからか、ムキになってしまった。恐る恐る、とでも表現しようか。ゆっくり歩いてくる笠松くん。それから、直視しようとしなかった私の顔をじっと見た。


「な、何だ?」


「泣いたのか?」


「何言って」


「腫れてんぞ、目」


無意識だろうか、手が私の目もとに伸び、触れる。その瞬間笠松くんに全てあったことをぶちまけたかった。今までの思いやらなんやら聞いて欲しかったのかもしれない。


「笠松く」


「ぅ、あぁぁぁぁあ!?」


自分がやっていることが、彼にとって恐ろしいことだとわかった瞬間悲鳴を上げて手を勢い良く離した。そのいつもどおりの姿に思わず笑ってしまった。


「はは、笠松くんは阿呆か」


「はぁ!?うっせ!」


「ばーかばーか」


「んだと、お前……!」


「ありがとう」


「……は?」


首にかけていたタオルで汗を拭う。
今まで怒っていた笠松くんは間の抜けた顔をしており、それを見て私はまた笑ってしまった。笠松くんは頭を抱えため息をついていた。その顔は赤くなっており、暑いのか、それともさっきしてしまったことを思い出し恥ずかしさがぶり返しているかは知らないが赤面するのは一々やめて欲しい。


「ほら、もうすぐ人が来る。君も女の子だらけの体育館にいるのは嫌だろう?引き止めてしまって済まない」


「いや、構わねぇよ。俺も、その悪い」


「何がだ?」


ニヤリと口角を上げ言ってやった。それから、一歩近寄る。いつものようにからかいたくなったからだ。こんな性格をしている笠松くんが悪い。


「そ、それは、その」


「うん。それは?」


「ぁ、ぅ、わ、だぁぁぁああああ!うるせぇ!俺はもう行く!ばぁぁぁか!」


「はは、可愛い」


「はぁ!?!?お、男に可愛いとか言ってんじゃねぇよ!」


ダンダン、と激しく音を鳴らしながら体育館を出ていくその背中を見つめる。運良く女子と会わなかったらしい。よかった、あの顔のまま会ってしまったら彼のプライドがズタボロだ。


「可愛っ」


笠松くんの可愛さのダメージは私の中で遅効性らしい。しかし、結構大きいダメージなのだが。顔が火照って暑い。ああいう反応をしてくれるのは嬉しいが可愛すぎてこちらまで恥ずかしくなってしまう。


「やっぱり笠松くんをからかうのは楽しいな」


報復が後に来るのが怖いが。
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