沈黙の参歌

会社に行った時、始めにあったのは何度か病室に来てくれてた苗字さんだった。一瞬彼女は瞳を大きく開いてそれから、笑った。おはようございます、髪の毛切ったんですね。似合ってます、と業務的な挨拶をしてすぐに踵を返し歩いていってしまったけれど。
その日、何度も目に付いたのは苗字さんだった。パソコンとにらめっこを始めたと思ったら友達に話しかけられて笑ったりだとか。その笑顔がすごく可愛いと思ったり。
苗字名前さんという女性は飛び切り可愛いわけでも美人なわけでもない。でも普通でもなくて、ちょっと綺麗な女性って感じ。化粧っ気もなくて、睫毛バシバシで眉毛書いてます!って言うのじゃない。すごく自然体に近い気がする。でも、まぶたが少し赤いのは昨日泣いたのだろうか。

「名前ー」
「はいはーい」

あれ、岩ちゃん。どうして苗字さんのこと名前で呼んでるの?俺の前ではずっと苗字呼びだったじゃん。

「飯行くか」
「奢り?」
「んなわけねぇべ」
「えー?はじめパイセン奢ってくださいよぉー」
「は?それ何だよ。真似?」
「ふふ、花崎の真似っ子」

苗字さんも岩ちゃんに対して敬語じゃ無いし。どうなってるの?
それから頭の中で納得したのは結局こうだった。

「付き合ってたのか。岩ちゃんの付き添いってのも納得。多分、俺とも結構面識あったのかなぁ」

だったら岩ちゃんにも苗字さんにも失礼なことしてたと思う。ていうか、言ってくれたらいいのに。変な小芝居しなくたっていいし。
岩ちゃんは苗字さんの頭をグリグリと乱暴になでて笑ってた。俺にもああやって笑い合える子、いたのかな。この間の岩ちゃんの話が気になった。


『お前のその一言一言で気づつく奴がいてもか』
『……それは、俺に彼女がいたってこと?』
『だったら』
『忘れちゃったものは、仕方ないよ』
『!!!!思い出そうともしねぇで、仕方ないとか言うんじゃねぇよ!お前の一言でアイツがどれだけ……ッ』


きっとあの言い方、岩ちゃんにとっても大切な子だったんだと思う。俺にとっても岩ちゃんにとって大切な人って誰なんだろう。そもそもそんな子がいるとは思えない。俺、特定の女の子とか作ってたのかなぁ。悪い意味じゃなくて、本当に今の俺にはそんなこと思えないだけで。会社の子に聞いたら分かるかな。お昼の後にでも聞いてみよう。でも、彼女だったら会いに来てくれそうなものなのに。岩ちゃんが口止めでもしたのかな。忘れてて俺が傷つけてしまわないように。だったら、俺は知ってもその子に会いに行くべきじゃないね。

「はーぁ」
「あれ、及川くん悩んでるの?って悩み事いっぱいか」
「あれ?あー、えっと」
「あぁ、ゴメンね。記憶ないのか。私は野田です。いつか思い出してもらえると嬉しいね」
「一応お医者様には一時的ーって言われてるんだけどね」

お大事にー、そう言って書類を机の上に置いていった彼女に聞けばよかった。野田さん、か。社員の人たち覚えないとまともに仕事できなさそうだ。書類を渡しに行くことも出来なければ書類を貰っても誰からか分からない。いちいち聞いてるのも時間の無駄。

「うぅッ辛い」
「辛いって何がですか?」
「あれ、苗字さん?さっき岩ちゃんとご飯に行こうって」
「岩泉さんが及川さんを忘れてたらしくて。呼びに来ました」
「え?いいのに」
「いえ、行きましょう」

あ、そうだ。苗字さんなら知ってるかもしれない。岩ちゃんの彼女さんっぽいし、もしかしたら。

「苗字さん」
「はい」
「俺って彼女いた?」

苗字さんの動きが一瞬止まった気がした。 すぐに動き出したけれど、気のせいかな。

「いたと、思います」

笑っていた。彼女は貼り付けるような笑顔で笑っていた。さっきまでの友達と浮かべていた笑とは違う、明らかに偽物の笑顔。

「それって誰かわかる?」
「及川、それ以上聞くんじゃねぇよ。クソ川が」

岩ちゃんが俺の後頭部をぶっ叩いた。めちゃくちゃ痛い。変な声が上がるくらいに痛い。最近岩ちゃん酷くない?及川さん、泣いちゃうよ。
そう言えば、彼女が病室で浮かべていた笑顔はずっとこれだった。
 
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