境界を踏み躙る

初めて岩ちゃんが怖いと思った。

「ねぇ、苗字さん」
「はい」
「何で岩ちゃんのこと、名前で呼んでるの?」
「それは……」
「ねぇ、当ててあげようか」

俺は、冗談半分本気半分。そんな気分だった。気分的には特に良かったわけでも悪かったわけでもない。ただ、彼女のコロコロと変わっていく表情をもっと見たいと思ったから。それに、ちょっとした確認と、疑問を晴らすだけ。少し気になってしまってはモヤモヤするのだから子供みたいだと心の中で笑ってみる。馬鹿らしい好奇心だった。

「岩ちゃんと付き合ってるんでしょ」

俯き気味だった顔を勢いよく上げて俺を見た。その時にやってしまった、と頭を抱えたくなった。俺は彼女の気に触ることを言い、尚且つ岩ちゃんを怒らせることを言ってしまったのだ。軽口のように図星?と聞く気にもなれなくて、口から情けない声でこぼしたのは一言だけだった。

「ごめん。不粋だった、よね」
「及川」
「ひゃい!」
「もう名前に近づくな。いいな」
「へ?ちょ」
「行くぞ」
「はじめ、待って」

俺もそこまで鈍くない、と自分では思う。あの二人の反応そうなのかなぁ、とまでは思った。俺は彼女のことをなんて呼んでいたんだろう。きっと、名前で呼んでいたんだろうな。

「苗字さん」
「!……はい」
「君の好きな俺は俺じゃないよ……ごめんね」

彼女の平手が飛んでくる前に岩ちゃんからグーが飛んできた。痛てぇ、とこぼした時にはもう苗字さんの泣いている顔しか目に入らなかった。でもそれと同時に、岩ちゃんもこんなに怖い顔をするんだ、そう思った。誰かが俺のことを笑った気がした。

「うん。私の好きな及川徹はあなたじゃない。でも、あなたでもあるよ。だから、謝るなんてこと、しないで。自分を否定したりしないで。その言葉で、私の想いを否定しないで。……行こう、はじめ」

そう言って笑ったのは、やっぱり貼り付けた笑みだった。偽物の笑顔はあまりにも綺麗で、本当に作られた笑顔だった。

「やっぱり、別れるのかなぁ?及川さん、記憶ないんでしょ?」
「!」

近くの女の子の高い声。

「えー?どうだろう?でも、記憶ないのは辛いよねぇ」
「でも、二人ともすごくラブラブだったでしょ?まぁ、大喧嘩したみたいだったけどさ」
「私、及川さん狙っちゃおうかな」
「無理無理。やめときなよ」
「やっぱり?」
「苗字さんには敵わないって」

ふふ、なんて笑う声に初めて煩わしいと思った。きっとそんなこと思ったのなんて始めてで。馬鹿みたいだと思った。

「だって性格よし顔よしだよー?私たちには無理無理」

自分のことも、苗字さんのことも何も知らないのは、 俺だけだ。

「ははっ……でも俺は」

きっともうあの子のことが気になってる。
 
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