触れる事すらもう叶わない

ここに来て、どうするつもりだったんだろう。及川徹と書かれた病室の前に立って、私はどうするんだろう。彼の好物の牛乳パンを持って。明日から仕事。でもそこに徹は来ない。彼がいない中、日常を過ごしていく。このまま思い出されなかったら、彼は彼の道を歩いていく。私のことなど、何も知らずに想わずに。

「失礼、します」
「あれ?えっと」
「昨日ぶりです。どうですか?」
「あ、どうもです。この通り、大丈夫ですよ」
「そうですか」

こんちには、花巻に松川。
何も言わないでいてくれてありがとう。そして、

「あ、えっと」
「苗字名前です」
「あ、及川です。こっちは松川くんと花巻くん。俺の高校の時のチームメイトらしいんだけど」

−覚えてないんだ……

覚えてない組にいらっしゃい二人共。
悲しそうに告げた徹。泣きそうなのはこっちなんだけどな。
花巻と松川と握手をして私は笑うのだ。はじめまして、と。

「これ、岩泉さんからです」
「ん?あ、牛乳パン!」

嘘がどんどんうまくなっていく気がする。嘘をつきたくて、嘘で塗り固めたくなくて、でも口からスラスラと飛び出ていく嘘は私をどんどん違う人物へと作り替えていく。

「岩ちゃんにお礼言わなきゃね」

違うよ、徹。
そんな言葉を飲み込む。
彼に触れたくて触れたくて仕方が無い。こんなに近くにいるのに、あの日はゴメンネって言いたいのに。
本当はキスして抱きしめて、誕生日おめでとうって言って欲しいのに。
触れることさえ叶わないのだ。ああ、もどかしい。

「及川さん」

ああ、こんな呼び方初めて。はじめも、徹も、苗字で呼ぶなんて初めてだ。

「岩泉さんが早く会社に来いと、言ってらっしゃいましたよ。早く直してくださいね」

最後だけ本心。
はじめが早く来いとか、そんなの言ってない。けれど、多分はじめも戻ってきて欲しいんだと思う。

「会社、一緒?」
「一緒、ですね」

一週間、同じ会社で全く話さなくて話さなきゃダメだった時は無言で書類だけ渡していた。それでも、会えていたことが幸せだと今感じた。

「あ、飲み物忘れた。及川さん、お茶でいいですか?」

敬語の必要は無い。ただ、そうして自分から線引きしてしまっただけ。自分から、遠ざかっただけ。これ以上傷つきたくなくて、自分を守ることしか考えてなかった結果。

「花巻さん、松川さんも何か飲まれますか?」

私は、結局自分のことしか考えていない、馬鹿だ。喧嘩した理由も自分の感情をぶつけて、喧嘩して仲直りしようとしても、意地張ってそんなことしようと思わなかった。

「俺も行くよ。花巻は及川と待ってて」
「了解」
「行こう、苗字サン」

自分のことしか考えてない私なんて、あなたはきっと嫌でしょう?そんなことない、なんて言われて抱きしめられて、丸め込まれるのは嫌。同じことが起きたら、もう私耐えられないもの。もう元に戻ろうなんて思わないから。
でもそれでも、自分勝手なわがままを聞いて。

「早く思い出せよ、ばかとーる」
「すまん、辛い時にいれなかった」
「いいんだよ、松川は悪くない。ていうか、松川も鼻声だし……」
「忘れられるのは誰だって辛いだろ」
「ッうん……」

大きい手が頭に乗って、撫でてくれる。

違うの、松川。
辛いんじゃない、怖いんだ。
 
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