1「……ハル」
家に帰りソファに座っている兄の背中に呼び掛ける。手にカップを持っていた。それは、私が昨日割ってしまったカップの片割れだった。お揃いで買ったそれ。凛は赤、真琴は緑、ハルは青、私は水色。
だけど昨日、赤が割れてしまった。どれだけ隠していても、ハルにはバレているだろう。棚に並んでいないのだから。
「……話すよ、あの時のことと、凛のこと」
ハルの肩が揺れて顔だけこちらを向ける。
優しい顔をして、自分の前のソファを指さした。立ち上がった彼はきっと私に珈琲でも淹れてくれるのだろう。台所から食器のぶつかり合う音がするから。
「……別に、ハルが判断してくれてもいいよ。誰に話してくれても構わない」
別に私はもう、立ち止まらないから。進まなきゃいけないから。ずっとその場に立ち止まってはいられないから。
ハルが話していい内容だと踏んだのなら誰に話そうが構わない。
「石川は私の担任で、まぁ……熱血漢?な人で、歳も近くて話が合うからって結構人気な先生だった」
嫌われてはなかったと思う。ただ、一部の女子には嫌われていた。若いというのもあり、視線が気持ち悪い、むず痒い、そう感じてしまう女子生徒もいたのだ。私はそう言う事は気にしないタイプだった為何も思わなかった。
「私は石川のことは苦手だった」
うるさくてウザい、そんな人。反抗期特有のものではなく、本当にそういうものが無理だった。
「だからね、最初コンビニで話しかけられたとき記憶になかった。一瞬で戻ったけどね。その時黄瀬くんは反対車線に立っていた男を追いかけていて隣にいなかった。今思えばあの時のフード男は囮だったのかもしれないね」
いや、多分じゃない。車の中にいたのも、きっとあの男だろう。私を眠らせたあいつ。誰かは知らないが。
「それで、それまでに何度もアイツとは会ってた。もし、私のことを帰るときもストーキングしていたのならばの話だけど」
流石に、その時までも囮なんて使わないだろうから本人だと言ってもいい。
「初めて気づいたのはハルに駅まで迎えに来てもらったとき。その時はハルがきた瞬間居なくなった」
コトン、と机に置かれた珈琲。湯気が立ち上る。
一言も言葉を発さず、ハルは私の前のソファに座る。ありがとうと礼を言い一口飲むと体の芯が温まった気がした。クーラーで冷え切ったこの部屋が寒いと感じる程、私は今心では震えているのだろう。
「それからも何回かストーキングされてて、巻くのが面倒臭くなって家にそのまま直帰したの。そしたらハルが大量の手紙を持ってて私に手渡してきた。その中に入っていたのは私の写真ばかり」
正直に言えば怖くて、気持ちが悪かった。そりゃあ、自分の知らない相手から自分が知らないうちに撮られた写真を送られるのだ。しかも嫌味たらしく、ハルや凛、大輝の顔を丁寧に塗りつぶして。
「どうして、言ってくれなかったんだ」
「言ったら何か被害がそっちに行くと思ったら」
「……そんなに俺は頼りないか」
「何アニメのヒーローみたいなこと言ってるの。そんなわけ無いじゃん。頼ってばかりだよ」
「……気づいてやれなくて、済まない」
「全然。気にしてないよ」
そんな顔をさせたいわけじゃない。
「私はハルが好きだから、迷惑かけたくなかったし、頼りたくなかった。自分の力でどうにかしようと思ったら。それに気づかないのは私が隠してたから。仕方ないよ」
だからハルは悪くないんだ。ソファから立ち上がってハルの前まで行く抱きしめる。サラリと髪の毛がハルにかかる。短くなってしまった髪の毛。
「大輝がね、助けてくれたの。目覚めたのは真っ暗な部屋で、畳に転がされた」
「もういい」
私の震えている腕を掴んで俯けていた顔を上げる。自然と目が合った。想像以上に私は酷い顔をしていたのかもしれない。
あ、
泣く
「っ……ぅ、う」
「もういい、」
「良くない……からっ」
あ、涙、ハルの顔に落ちた。
そこからは覚えてない。ちゃんと話せたのか、それさえもわからない。私の記憶、なくなっちゃえばいいのに。辛いのも、楽しかった記憶も、全部全部。一からやり直せたらいいのに。
あんな男と、キスなんてしたくなかった。
あー、その時が一番ショックだったかなぁ。ファーストキスってやつ。変態に取られたんだもん。悲しかったよ。
でも、大輝が来てくれたから。扉を蹴っ飛ばして、包丁持った男に綺麗に拳決めてくれた。なんであんな綺麗な身のこなしなのか、部活で姿勢を低くしてスティールとかするからかな。
髪の毛切られたのは仕方ないよ。暴れた私が悪かったから。でも、ね……勿体なかったかな。
泣いちゃったよ。
「……いた、……よ」
―会いたいよ
「!……凛のことは後日だな」
瞼を閉じ、自分の親友の名ではない、違う男の名前を呼び、願った妹を抱き上げ彼女のベッドまで運んだ。
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