2飛び込み台に立つと世界が変わる。会場全体が見渡せる。私はこの場所が大好き。でも、見渡せるから見えなくていいものまで見えてしまった。
黒いフードのついたパーカー、マスク。
「……ぅ、あ……」
再び吐き気がして、いきなり眠気が襲ってきて、意識が朦朧とした。真っ直ぐ立ってられないと思った時にはもう、周りに酸素がない場所にいた。
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飛び込み台から、しかも大会で、落ちる人なんて始めてみた。
棗ちゃんが立ってたはずのそこには誰もいなくて、現状をすぐに理解したのは意外にも遙先輩でも、凛先輩でもなく真琴先輩だった。
「ナツ!?」
真琴先輩の大きな声に、次々と会場から悲鳴が上がった。
「い、ま……」
「棗ちゃん!!」
すぐに上がってこない棗ちゃんを、救助の人が助け出そうとプールに飛び込んだ。
観客席の柵から乗り出して今にも泣きそうな顔をした遙先輩は誰を罵倒したかはわからないけれど、クソ、そう呟いて走っていった。真琴先輩と凛先輩もそれに続く。
「……行かねぇのか?」
「大ちゃんも、でしょ。……あ、棗ちゃん!!?」
助けに行った人が棗ちゃんを抱えて床に横たえた。
そこに遙先輩たちが到着。
「棗!?棗!!」
「かなり水を吸い込んだようです。御家族の方ですか?」
「心臓マッサージをします。お手伝い、お願いできますか?」
「はいっ」
珍しく焦っている遙先輩を見て、驚いた。あんなに冷静沈着で無口な人がこんなに焦って話すものなんだと。
棗ちゃんは遙先輩にとって掛け替えのない妹なんだよね。
「大ちゃん、行こっか」
「どこに」
「医務室」
大会は最高のコンディションで挑まなければいけない。何故ならそれは周りに失礼だから。周りに迷惑をかけてしまうから。それが私の中でのマネージャーからの意見。
バスケもそうだけど、水泳も同じだと思う。こうやって棗ちゃんが落ちたことで今から泳ごうとしていた人達の闘争心はどんどんなくなっていってる。
もし、棗ちゃんが落ちたりなんかせず、泳ぎきっていれば周りの人もスッキリしていたろう。燃焼不足なんかにはならなかったはずだ。
「さつき、話聞いてやれよ。女の方が話しやすいだろ」
心臓マッサージをしている遙先輩を見ながら呟く色黒の幼馴染みは何か怒っているようだった。何に、と聞かれてしまえばわからないけれど。静かにただ怒っていた。
「げほっ、かはっ、ぅう……」
「棗!?」
「ハ、ル……」
目覚めたことを確認して立ち上がった私たちの耳に入ったのは破裂音だった。
叩いたのは紛れもない凛先輩だった。遙先輩がそんな行動をした凛先輩を見つめる。
「謝れ」
「……ごほっ、何、に」
「この場にいる全員にだ」
「り、凛……それは今じゃなくても……」
「お前が優勝したいって、勝ちたいっていう貪欲な気持ちは十分わかった。だけど、私欲のためだけに周りに迷惑かけんじゃねぇよ」
「……」
今、肺から沢山水を吐いたばかりなのにどうして凛先輩はそんなこと言えるのか。
多分私と同じことを思ってるからなんだよね。
「謝れ。すみませんでしたって」
「……す、ま……せ、した」
「聞こえねぇ」
「すいま、せんでした!」
「よし。医務室いくぞ。みなさん、本当にすみませんでした。……棄権します」
棄権、その言葉に唇を噛み締めたのは棗ちゃんじゃなく、言った本人の凛先輩だった。
棗ちゃんがどれだけ頑張ってきたのか、近くで見て、知ってたから。一番その言葉は伝えづらい言葉だったんだ。
「っぁあ……ぅく……」
腕で涙か水か、わからないものを拭う。きっと拭っているものは涙。小さな嗚咽が聞こえたから。
大ちゃんを見ると暗い顔をして俯いていた。
高校時代の自分と重ねたようだ。あの、私が出場を監督に辞めるように言ったときの大ちゃんとかぶって見えたから。
「辛いよな……出れねぇってのが、一番辛い」
「え?」
「できると思って無理言ったらこうなるんだよ。自分でもそんな予感はなんとなくする。でも、それでも、出たいから。出ちまうんだ」
―周りの心配も何もかも振り切って
「……本当に、そうかもしれないね」
私は大ちゃんたちと同じ空間にいるけれど決して同じ場所には立つことができない。それは私も理解した上でこの仕事をしているのだから何も言わないけれど、それでも……同じ気持ちになってあげることは出来ないから。
何て声かけたらいいのかもわからなくて、結局はウザがられることしか言えない。
「それでも、行って上げるべき?」
「当たり前だろ」
「うん、そうだね。行こっか」
私は棗ちゃんの支えになることができるのかな?
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