「待った?あれ、知り合い?」
高いソプラノの声に振り向いた。きっと、縋るような声だったろう。いや、声なんて出てなかったかもしれない。掠れたその声にならなかった声を彼女は聞き取ってくれたろうか。
―助けて
撫でられた頭に緊張の糸が切れそうになった。
「ごめんなさい、知り合いだったかな?」
「ああ、すみません。いきなり……頼、帰ろう」
「ッッ」
「頼?彼女の名前は頼じゃありませんよ?他人の空似でしょうか……」
「そ、そんなわけ無いでしょう!彼女は紛れもなく頼だ」
「えっと、だって彼女の名前は“さつき”ですよ」
冷静に、嘘を紡いだその口をジッと見つめる。私は何も言わない。いって変なボロが出たら大変だから。
ね?首をかしげて聞いてきたから首を縦に振った。目の前の男は信じられないという顔をして近寄ってくる。ようやく収まった体の震えが再び蘇り震え出す手。収まれ収まれと思えば思うほど震えは止まらない。
「すみません、彼女男性が苦手なんです。それでうまく話せないので……失礼ですがそれ以上は近寄らないでください」
「彼女は佐倉頼だ!そうだろう!」
「違います、彼女の名前は桃井さつきです。やめて下さい、警察呼びますよ」
その一言が効いたのだろう。舌打ちをした彼は私を睨みつけ背を向けた。膝に視線を落とせば通話中となっている電話。向こう側で彼は今どんな顔をしているのだろうか。イライラしてしかめっ面をしているのか、それとも心配そうな顔をしているのだろうか。
「さつきさん、有り難うございます」
「ううん、ごめんね、私の名前使っちゃったけど……良かったかな?」
「もう、助けて頂けただけで十分です」
「そっか。あれ、その電話……」
「電話、しますか?」
「…………しようか?」
「お願いします」
さつきさんに代わった瞬間の、さつきさんの顔。眉間にしわを寄せ呆れたような顔をしたのだ。赤司くんの声が聞こえず、何を話しているのかは不明だがさつきさんがそんな顔をするようなことを赤司くんは言っているのだろうか。
「もう、赤司くん過保護!」
「あはは……」
「言っていることは纏まっててちゃんとしてるのに止まることなく話すから呆れちゃったよ」
そんなコトするんだ、そう思いながら携帯を受け取りカバンの中に放り込む。
車椅子がゆっくり走り出した。振り向くとさつきさんがニコニコしながら車椅子を押してくれている。
「さつきさん、自分で」
「そんなプルプル震えた手で?」
「え、あ……」
指を刺されてようやく気づいた。私はこんなにも怖がっていたのだ、と。きっとさつきさんがいなければ私は何もできなかった、言えなかった。もしかしたら、そのまま連れていかれていたかもしれない。赤司くんの元へ戻れなくなっていたかもしれない。
「すみませ……」
「いいの、泣いてもいいよ。少し聞いてもいい?」
「ッは、い」
「あの人は頼ちゃんの元彼さん?」
うなづいたのを確認したのか再び質問される。
「あの人のこと、嫌い?」
「……いいえ」
「じゃあ、好き?」
「……いいえ」
「どう思ってる?」
「大切だった人。今はもう、何も思いたくない」
「思いたくないってコトは何か思ってる?」
「…………怖いです」
瞳からこぼれた涙は自分の震えている手に落ちて、そこから滑り落ちた。ブランケットに染み込んでいくその様をみて、私の心の中のようだと思った。ジワジワと何かが侵入してきたような、その感覚。
今までの平穏が少し崩れた気がした。
Do not break, do not come.
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