短編 | ナノ
サルビアの散る頃に

 赤司征十郎様が死んだ。
 たったの二十歳。

 葬儀は、赤司家の菩提寺で、近しい親族のみで行われるため、彼の付き添いの看護婦でしかないわたしは参列を許されなかった。
 そろそろ、征十郎様のご遺体が荼毘に付されている頃だろうか。
 赤司家での最後の仕事として、故人の居室の整理を命じられたわたしは、こみ上げてくる悲しみを紛らわそうと自棄のようになって手を動かしていた。
 少しでも気を緩めれば、恥も外聞もなく泣きわめいてしまいそうだった。

 征十郎様。
 征十郎様。
 征十郎様。

 お会いしたい。
 あの澄んだ紅の瞳にわたしを映してほしい。
 名前、と。病のためにいつも少し嗄れている、けれど優しいお声でわたしを呼んでほしい。

 いずれこうなった時に苦しむことはわかっていて――だけど、わたしは征十郎様を愛してしまった。

 そもそも征十郎様と、平民のわたしとでは住む世界が違う。
 どうあがいても、元より叶わぬ恋だったのに。

 勲功華族である赤司家の長子として生まれた征十郎様は、本来であればいずれ家督を継ぐお方。
 しかし、早くに実の母上を亡くされ、そのうえ不治の病を患ったあの方は、わたしがお仕えするようになった半年前にはもう、この薄暗い離れになかば幽閉されるように追いやられていた。
 後妻である今の奥様や弟君たちは、あからさまに征十郎様を疎んじていた。
 旦那様は、病魔に侵された長子への関心など、とうに失っているようだった。

 なのに征十郎様は、そんな境遇に不満ひとつ漏らされることはなく、やがて来る自分の運命を穏やかに受け入れている様子で。

 はがゆかった。
 少し言葉を交わしただけで、征十郎様がその弟君たちとは比べ物にならないような際立って優れた知性を持っていらっしゃることは、わたしにも理解できた。
 古参の女中の方たちから聞いた話では、学校の成績も常に最上位だったという。

 ただ、お身体があと少しでも丈夫だったなら。
 それだけで、征十郎様には今とまったく違った華やかな生涯が約束されていただろう。

 そんな征十郎様のお役に立ちたいと願いながら、わたしにできるのはささやかなお世話をすることだけだった。
 この半年間、しだいに痩せ細ってゆくお身体を、青白く変わってゆくお顔色を、日増しに激しくなる発作を、わたしは、どうすることもできなかった。

 今月に入ってからは食事もほとんど喉を通らなくなり、無理に召しあがっても戻してしまうばかりで――血が混じっているのを何度も見た。
 往診のお医者様にこっそりと尋ねれば、生きていらっしゃるのが不思議なくらいだ、と。

 そんな容態になっても、征十郎様は相変わらず弱音など一度たりと口にすることなく、

「すまないね、名前。君には迷惑ばかりかける」

 苦しげに呼吸を乱しながら言うので、わたしはたまらなくなって、

「いいえ、少しも迷惑などではありませんわ。征十郎様のお世話をさせていただけること、わたしは光栄に思っているんです」
「けれど……治る見込みのない病人の付き添いなど、やり甲斐もないだろう?」
「まあ、何をおっしゃるのですか! 征十郎様は、今にきっと回復なさって、立派に赤司家を継がれます!」

 わざと明るい声で、根拠のないことを言ってしまった。
 けれど征十郎様は決してわたしを叱責したりなさらず、

「それは少し困るな。病人でなくなったら、名前に世話をしてもらえなくなる」

 などと逆に軽口を叩く。

「ではその時は、看護婦ではなく女中として雇い直してやってくださいませ」
「ああ、考えておこう」

 言い合いながら、わたしも、征十郎様も、そんな日が永久に訪れないことを知っていた。
 知っていて、知らないふりをしていた。

 終わりは唐突だった。

 おとといの夜。
 昼間いつもより気分が良いと言っていたのに、征十郎様はお休みになる間際、大量に血を吐いた。
 そのまま意識を失い、お医者様が到着なされた時にはすでに絶命していたようだった。

 あまりにあっけなくて、孤独な最期。
 だって、付き添っていたのはわたしだけ。
 旦那様や奥様、弟君たちは、親しくしている公爵家の夜会に呼ばれていてお留守だった。
 お帰りになられてからも、誰ひとり、涙を流すことすらなかった。

 わたしはこんなに――喪失感のあまり、おかしくなってしまいそうなのに。
 最初は同情に似た淡い気持ちだったはずなのに、いつのまにか、恋の炎は自分さえ焼き払わんばかりに大きくなっていた。

 征十郎様。
 征十郎様。

 せめて口に出して伝えていれば良かった。お慕いしています、と。

 いや、あの方に伝えたところでどうしようもない。
 ただの付き添いの看護婦に恋い慕われているなんて、征十郎様のお心には負担にしかならなかっただろう。

 だから、これで良かったのかもしれない。
 想いを伝えて嫌われてしまうくらいなら、患者と看護婦という安定した関係のままでいたほうが、きっとわたしにとっても幸いだったのだ。
 いずれにせよ、どう後悔したところで、もう征十郎様には会えないのだから。

「……割り切るしか、ないのだわ」

 征十郎様の寝床の枕元に何冊か積まれていた洋書を書架に戻しながら、わたしは自分に言い聞かせるように口に出した。
 もうあの方は戻らない。
 取り残されたわたしは、生きていかなければならない。

「後追いなどされても、征十郎様のご迷惑ですものね」

 続けて、ごく自然に口から出た言葉に驚いた。
 まさか……後追い、など。
 そこまで思い詰めているのか、わたしは。

「だって、誰が、浄土での征十郎様のお世話をするの……?」

 わたし以外の誰かが?
 そんなのは厭だ。
 征十郎様を最後までお世話して、看取ったのはわたしだ。
 恋を殺すことはできても、あの方を二度とお世話できないことは受け入れられそうになかった。

「征十郎様……っ」

 とうとう、堪えていた涙がぱたぱたと溢れた。
 携えていた洋書を、征十郎様ご自身であるかのように掻き抱く。

 ――その、生前の征十郎様がよく読んでいた本の中に、とても丁寧な筆遣いで書かれた一通の手紙が挟まれていることを、わたしはまだ知らないのだった。


***


苗字名前様


 君がこの手紙を読む頃、僕はもうこの世にはいないだろう。
 赤司家当主の長子として生まれながら、不治の病に侵され、一族から爪はじきにされた僕を、献身的に看病してくれた名前には、感謝してもしきれない。
 僕は、この短い人生の終わりを君と過ごせて本当に幸福だった。

 しかし、改めて君への手紙など書き残そうとすると、何から書けば良いのか迷ってしまうね。
 それは僕が名前に、本当に気兼ねなく接することができるからだろう。
 敗者も弱者も赤司家には不要と言われながら育った僕は、病を得てなお、他人に弱味を晒すことがずっと苦手だった。
 だが不思議と、君の前では、弱い自分を肯定することができた気がする。

 そういえばこのあいだ、少し不思議な夢を見た。
 名前は『籠球』というスポーツを知っているだろうか。
 僕もあまり詳しくはないのだが、何人かがふたつのチームに分かれて、人の頭ほどの大きさのボールを、高い場所に設置された籠の中に入れ合い、得点を競うというものらしい。
 夢の中で、僕はそのスポーツを楽しんでいた。
 驚くべきことに、観客としてではなく、選手としてだ。
 しかもなかなか強かった。
 僕がボールを運んでゆくと、まるで僕が天帝でもあるかのように、誰もが道を開けてしまうんだ。
 そして名前がコートの外から、声援を送ってくれていた。
 だからだろうか、どれだけ走り回っても、跳び回っても、僕は少しも疲れることがなかった。

 おかしな夢だね。
 現実の僕は、跳び回るどころか、この離れの外に出ることすらできず、それに籠球用のボールに触ったことすらないというのに。

 けれど名前、君は、『生まれ変わり』というものを信じるだろうか。
 なんだか僕には、どうしてもあの夢がただの夢とは思われないんだ。
 いつか、どこかで、あの風景こそが本物になればいい――などと、気味悪がらせてしまったら、すまない。
 病人の戯れ言と思って、許してほしい。


 さて、事務的な話をしておこう。
 わずかだが、母の形見の宝石を、僕の文机の引き出しの中の小箱にまとめておいた。
 それを、名前に受け取ってほしい。
 この家に残しておいたとしても、義母のものになるか、弟たちが見つけて、恋の鞘当てにでも使ってしまうだけだろうから。
 君に身に付けてもらえたら嬉しいが、邪魔になるようなら気にせず売り払ってくれても構わない。
 質は悪くないものだから、それなりの値にはなると思う。


 少し疲れてきた。また熱が上がってしまったのかもしれない。
 手紙を書いているだけでこれでは、少なくとも今の人生では籠球などやはり無理そうだ。
 もしも来世などというものがあるならば、丈夫な身体に生まれたいと心底願う。
 すべてに勝利するような、絶対的な強さがほしい。
 強者でなければ何も得ることはできないと、僕は骨身に染みて知っているから。


 最後に、もうひとつ戯れ言を書くのを許してもらえるだろうか。

 この離れで、ふたりきりで時間を過ごすうち、いつしか僕は名前に心惹かれていた。
 君に背中をさすられると、心が安らいだ。
 君の笑顔を見ていると、身体の痛みも忘れられた。
 君の与えてくれる優しい言葉に、僕がどれほど救われたか、きっと君は気付いていないね。

 どうすれば君を僕のものにできるのだろう、と何度も考えては、君はこんな病人に縛られるべき人ではないと気持ちを押さえつけてきた。
 けれど今、いよいよ病が重くなって、身体の自由がきかなくなるにつれて、せめて一度なりと接吻でも乞うてみれば良かっただろうかなどと不埒なことを考えている自分がいる。
 君は優しいから、事によっては同情から応じてくれたかもしれないだろう。


 さて、僕はここまで書いて、やはりこんな手紙は破ってしまったほうが良いのではないかという思いに囚われ始めている。
 病人、いや、おそらくは死人からの愛の告白など、迷惑以外の何物でもないはず。
 明日の朝、無事に目を覚ますことができたら、君に見つからないように、さっさとこれを捨ててしまうつもりだ。

 おやすみ、名前。
 どうか、幸せに生きてほしい。


。。。
The Seven Sugar Jugs/アカネ虫様
アカネ虫さんから頂きました。ご訪問の際は失礼のないよう、お願いします。書いてくださり、有難う御座いました(^^)
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