ろく
その日、二人 ≠ナ帰っていた筈なんだ。筈、なのはちゃんと覚えていないから。
僕にとってその人は忘れていい人だったんだろう。だから、肩から上は思い出せないし、名前もわからない。ただ、女性だということだけはわかっていた。彼女はスカートを履いていたから。
『ねーねー、征?』
「何?」
『私今日の抜き打ち、自信あるよ?』
数歩前を歩いていた彼女が振り返りこちらを向く。わかったのはスカートの広がりだった。大きく広がったスカートは体に巻き付くようにして戻る。
「ふぅーん?じゃあ、勝負する?どうせ勝敗はわかってるけど」
『何それ、自分が勝ってるに決まってるーって思ってるでしょ!?酷いなぁ、もうっ』
親しげだった。
なぜ忘れてしまったのか疑問に思うほどに親しげだった。彼女の顔以前に名前さえもわからない。
僕はこんなにも何かを忘れ、気にしたことはあったろうか?
「まぁね」
『いいもん!じゃあ、私が勝ったら征から何かちょうだい?』
「へぇ、いいけど……俺が勝ったら?」
『征の好きなもの上げる。いい?ね?』
「いいけど……?」
内心心がはねた。何故だろう?この頃の僕は彼女のことが好きだったのだろうか?でも、好きだった女の子の顔まで忘れてしまうのだろうか?
いや、そんな筈ない。
そんな中、子供の泣き声らしき声が聞こえた。
『あれ……あの人、お父さんかな?』
彼女が指さした先にいたのは子供の事をオロオロと見ている男性だった。ちょうど、今の僕ぐらいの年だろう。26.7ぐらいだろうか?
「そうかもね」
『ちょっと待ってて!すぐ帰ってくるね』
そう言って走って子供のそばに行ってしまった彼女。その時微かに母様の存在を思い出した。
小さい頃から一緒にいた……あれ、誰だったろう?一緒に僕といた子供がいたはずだ。香織だったろうか?いや、顔が、名前が、思い出せない。
「わぁぁああん!ああああぁぁあ!」
『お、お父さん!一緒に歌いましょう!お姉ちゃん、お名前は!?』
「ぅあああぁぁぁあん!」
『おお!お父さん、この子の名前は!? 』
スカートが汚れるのも気にせず、座り込み泣いている子供の頭を撫でる。
父親は慌てながらも子どもの名前を答える。どうやら名前からして女の子のようだ。
『灯里ちゃんね?灯里ちゃん、灯里ちゃんの好きな歌ってなぁに?』
「う、ぁあ……んん……ひっく、ひっく……おう、た?」
『そうそう!』
きっと彼女の顔は今頃綻んでほっ、としているのだろう。子供が泣き止み、反応したのだから。
「ちゅ、ちゅーりっぷ」
『あ、それ私も知ってるよ!一緒に歌おうか。だめ?パパも一緒だよ!』
いつの間にか一緒に歌うことになってしまった父親が理不尽で仕方がない。
しかし、父親も泣きやんでくれた子供の機嫌を損ねまいと、笑って一緒に歌おうと口を開く。
「だめ!パパはオンチだから!」
ペチ、と小さな口で父親の口を抑える。
それから父親は苦笑いを一つ、少女は声を立てて笑っていた。
「――ー、帰るぞ」
『はーい。パパと今度はいっしよにお歌歌ってあげてね?』
「うん!おねぇちゃん、ありがとう!」
『どういたしまして!』
バイバイと手を子供に降る。父親は彼女に頭を下げ、子供と手を振っていた。
『おまたせ!帰ろうか?』
無意識だったんだ。わからないけれど、子供をあやす女性の姿を見て玲央の友人の名前を叫んでいた。
「光!!」
****
『……征?』
「……赤司くん!どこに……え?」
わからない。あんなに緊迫した表情で私の名前を今まで呼んだことがあったろうか?
ない。記憶がなくなってからめっきりなくなったのに。
どうして抱きしめられてるの?
「す、すまない!」
思い出してくれたのかと思ったが違ったらしい。何だったのだろうか。
「……最近少し、変でね。桃井が昔馴染と言ってから……頭の中に見知らぬ少女が出てき出して……その子と重なったんだ、すまない」
『いえ、気になさらないで?』
腕の中にいた颯太くんはポカンとして征を見やる。
氷室さんと同じ顔をして見ている彼はやはり可愛いのだ。女の子に生まれたら良かったのにと思うほど。でもきっと大きくなったら氷室さんと同じようにイケメンさんになるのだろう。
「名前がね、光さんと同じだった気がするんだ。だが、肝心の容姿が思い出せない。クソッ」
イラついたかのように地面を一度だけきつく踏みしめたあと笑って颯太くんを撫でる。
氷室さんの上司とはどうやら彼らしい。上司というか、社長のようだが。
「颯太をありがとう。えっと……名前を伺ってもいいかい?」
『あ、すみません、こちらばかり名前を伺ってしまって!白銀光です。ここにいたことは誰にも言わないでもらえますか?次からここに遊びにこれなくなってしまうから』
「OK!わかりました。本当に今日はありがとう!」
『ええ、もうこんな時間ですしお暇させて頂きます。さようなら、氷室さん、赤司さん。颯太くん、ばいばーい!』
「ばいばいっ!」
颯太くんに手を振りカバンを持ってスカートについてしまった砂を払う。
そういえば前もこんなことがあったな……征と中学二年だったろうか。帰り道に子供とお父さんがいて……子供が転んで泣いてたのかな?それを私があやしてた。
「……待て」
パシリと掴まれた腕。近づく顔。
その行動が私の人生を狂わせていく。
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