その日は香織さんが来たから私は帰ることにした。目の前でいちゃつく彼女と征の姿が離れない。いつかは彼らは結婚して子をなし、その子に赤司を継がせるのだろう。


『…………あれ?』


いつから私の涙腺はこんなに弱くなってしまったのか。静かに流れるその涙は頬をゆっくりと伝う。
病院を出てタクシーに乗っても流れるのは止まらない。運転手さんに心配されても涙は止まらなかった。


私はこんなにも他人に征を取られるのが嫌なんだと


私はこんなにも征が大切だったんだと気付かされた。


誰にも渡したくない、そんな嫉妬深い感情が汚く思えた。嫌だった。自分がこんなにも汚いのは。汚くはないのかもしれない、でも私にとっては汚いのだ。こんな感情知りたくなかった。


『汚い……』


気持ちが溢れ出る。


『っ…………ぁっく……』


頬を伝った涙は生暖かい。冬の寒さに反発して頬を伝うそれはあまりにも心とは相反するもの。暖かすぎる。


「ついたよ、お嬢さん」


『……ありがとう、ございました。……なんか、すみません!』


お金を払ってタクシーから出る。玄関に鍵を差し入れた。
音を立てて開く鍵。そのまま扉を引き中に入る。人の心の中は家に出るのかもしれない。


『ぐっちゃぐちゃ』


靴も、服も、全部。散乱したまま。征が倒れたと聞いたその日、記憶を失っていると聞いていつの間にかこんなふうになってしまった。
机においてあったコップは床に落ち、砕け、ガラスをそこら中に散らばしている。


『ふぅ……ぁ、あああああああああああ!!!わぁぁぁぁぁあああッッ!!!!!!!』


防音なのだ。いくら大きな音を出していても何も言われまい。
今朝使っていたコップが音を立てて割れる。皿も割れた。お箸もフォークも落ちる。クロスもだ。

椅子が倒れる。
そんなのお構いなし。机に乗っていた教材も、何もかも落とした。汚い部屋。そんなにも私の心は荒れていたのかと思うほど汚い部屋。こんなリビングが今の私の心なのだ。


『ぁあ……っ……くっ……ふっ……』


思わずフラリとしてしゃがみこむ。
床は想像以上に冷たかった。
碓かあの日からちゃんと睡眠を取れていない。フラフラするその体に鞭を打ち寝室まで歩いていく。
ベッドに倒れ込んで目を瞑った。


『は……はは……』


あの二人の間に入れるわけ無い。自分が入り込むことなんて絶対にないしできない。
それに征が私のことを思い出すなんて確信はない。もう一生忘れて私のことは思い出さないのかもしれない。
そう思うと体震えた。思わず自分の体を抱きしめて体をちぢ込める。


『…自信無いよ……毎日行くのなんて辛いだけ。歓迎もされてないんだから。



あの日から、何年経ちましたか?



『赤司さん』


「光」


『ご結婚、おめでとうございます』


心から笑えないのに、口だけ笑みを浮かべて。思ってもないことを口にし、頭を下げた。彼の幸せそうな顔に逃げたしたくなったのは当たり前のことだろう。


―第一部 END―


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