散文置き場

 ▼  学園K/WD*猿沙耶

千の花も満たす頃

※軍パロ


「伏見君は物知りだね」

 幼子のような何故なぜどうして攻撃をくらい、怒鳴りたい衝動を堪え一通り答えるとそれに満足したらしく感心したように目を光らせこちらを見ている。その姿は、同じ年の頃合いの少女そのままでストレイン、影では兵器などと呼ばれているとは思えない程に無害そうだった。ひとたびその力を振るえば伏見でさえ苦戦を強いられるだろうことを頭に置きつつ、そうかよと投げやりに返事をした。
面倒な仕事を任された、と今さらのように思う。断る術など持たない(そもそも無いのだが)から仕方ないとは言え、室長の命令はいつも通り厄介ごとだった。前線に置かれていた能力者の護衛、という監視。青に配属されたその女は一応人間らしく、木野花沙耶、という名を与えられていた。伏見の知る限りストレインたちにあるのは名前ではなく区別をつけるための番号のようなものだ。
 力は、本来与えられるものだ。伏見もそうだった。
赤の元で徴と力を与えられ、青へと移り剣と力が与えられた。力を分け与える王も、王冠を得なければそうした力は無い。だが、それとは別に生まれながらに力を持つ者がいる。それが、今目の前で好奇心に目を輝かせる女だ。異質、異能、能力者。ストレイン。常人在らざる力を持って生まれた人間。琥珀の眼差しが真っ直ぐにこちらを見据える。

「嬉しい」
「…なにが」
「今まで、そうやって教えてくれる人いなかったから」

厄介ごとだ。そう心の内で繰り返した。
前線にいた、ということは相応の働きをしてきただろう能力者だ。
各部隊の色を与えられた、或いは所属している軍人と違い、ストレインは時に消耗品と同等の扱いをされている。それに対し反発する者たちもいるが、持て余した異能者の力をあえて外に向けることで治安維持に繋げるという名目の元、多くは無くとも少なくも無い能力者は管理されてきた。研究の為、国の為、そうした大義の元。これもまた、そのうちの1人で、1つだ。
突然の異動の背景を伏見は詳しく知らされていない。何かしらの勢力争い、ないし抑止効果のためであるとは考えられるが上司たる宗像が手持ちのカードを見せない以上今はただ従う他無い。元より伏見に選べることなど殆ど無いのだが。

「…案内が途中だ。行くぞ」
「あ、うん。お願いします」



この国はもうずいぶん長いこと戦を続けている。疲弊し、退廃し、その身に澱みを抱えながら、それでも国として形を保ち民を守り、降りかかる火の粉を払ってきた。その代償を、見ぬふりをしながら。



「…伏見君、と私は友達?」
「…はぁ?」
「八田君が、同じ青なら、仲間なんだろうって」

 なるほど、あの単純馬鹿らしい短絡的な思考だ。思わず舌打ちをするがそれに怯むことなく木野花は首を傾げ、不思議そうに問いかける眼差しを向けた。
友、ではないが同じ所属であることは違いない。だから仲間というのは過ちではないが、恐らく八田が思う仲間ではないことは間違いないだろう。あれは仲間だの友だの、そういうものが好きだから。だが木野花にとっての仲間がなんであるかまでは未だ伏見の理解が及ぶところではない。同じ所属であること、或いは八田と同じく心同じくするもの。それは全く別個のものだ。青の元、命に従い剣を持つ。同じ青の王の下にいる者同士、ある程度の連帯感はあるが信頼なのかと問われると伏見は口を閉ざす。そうした煩わしさを切り捨て赤を抜けたのだ。それになにより、木野花は監視の対象である。信頼というものは、無い。

「人って、難しいね」
「…」

 言葉に迷う伏見にやんわりと笑みを浮かべ、話を断ち切る。

「友達ってどうしたらなれるのって聞いたら、もう仲間だろうって教えてくれたんだけど」

あの馬鹿、と心中で舌打ちと罵声を呟いた。

「私、伏見くんと友達になりたい」
「…断る」
「だと思った」
「そういうのは他の奴に言え」
「八田くんには言ったよ」
「…なんだって」
「言うまでもないって」
「…」

あいつ監視って任務を忘れてるんじゃねぇか。あまりの短絡さに頭痛さえ覚える。容量が小さいことはこの際仕方がない、その点は諦めるとして与えられた最優先されるべき任務さえ疎かにしかねない言動にため息が零れる。赤から派遣されたかつての同僚の愚かさを伏見は身に染みて知っている。それこそが、八田の強さであることも。眉をひそめ、舌打ちをするが苛立ちは収まらない。

「なので、当面の目標として伏見くんと友達になることを目指したいなと」
「断る」
「…少しくらい希望が」
「無い」
「…ほんのちょっとも?」
「無い」

手厳しいと笑った。そこに悲しみや寂しさの色は無い。思えば、笑う以外の表情をあまり見たことがないと気付いた。…どうでもいいことだ、と目を逸らす。伏見の仕事は監視であり、馴れ合いではない。



 その日、伏見は初めて木野花の戦いを見た。目を開けることさえ困難な吹雪の中、木野花はただ立っているだけだった。雪を割って生える緑の蔦が木野花の体にしゅるりと巻きつき、一つ二つと蕾をつけ花開く。根が雪の中を無尽蔵に這い、強風の音に混じり遠く微かに悲鳴が聞こえる。血は見えない。悲鳴も遠い。
目の前にいるのは今まで監視してきたストレインだ。…本当に?食事に一喜一憂し、好物に目を輝かせていた。甘味があれば喜び、無ければ残念そうに項垂れる。あまり支給されないと本を嬉しそうに受け取り読みふけ目の下に隈を作っていた。少し赤い目をごまかそうとこすり、申し訳なさそうに謝罪をしたが改善が見られなかったので制限をかけることにしたのもついこの前だ。

「…終わったよ、伏見くん」
「…」

くるりと振り返り笑みを浮かべる。これは誰だ、と己に問いかける。

「吹雪いてて良かった。どうせ、すぐ雪が全部隠しちゃうけどやっぱり見てて気持ちのいいものじゃないしね」

雪を割って生えていた植物は既に枯れて、雪の下になりつつあった。

「寒いから、早く帰ろう?」

これは、誰だ。







それは緩やかに笑う。

 知らないことを知りたいと言い、新しい本を手にしては表紙を大事そうに指でなぞる。痛みは苦手だと苦笑いを零し、甘いものを好んで苦みのあるものは好まない。ただ、砂糖とミルクを多めに入れたコーヒーは好きだな、と言った。
思えば、知っていることは驚くほど少ない。当然だ。木野花に関する情報にアクセスする権限を伏見は有していない。上司たる宗像に命じられるままにストレインの世話、という監視ををするだけだ。それに含まれたものを薄々感じてはいたが、確信を得たのはあの日。
 外からの襲撃に応戦を命じられた木野花に監視を理由に着いて行った。少人数による襲撃。いつもの任務、いつもの役割。待っていてと言う木野花にこれが俺の仕事だと言い反論を許さなかった。外は吹雪だ。寒いから、危ないから、あれこれ理由をつけて留まらせようとするのが苛立たしく、なら早く終わらせればいいと言えば少し沈黙したがそれもそうかと納得した。

「早く終わったら、ホットミルク飲もうね」

そう言って、笑った。

 王から与えられた能力は、それぞれ個体差が出る。赤ならば炎が与えられるがその大きさや威力、性質はそれぞれの資質に左右されるのだ。だがストレインは己のみの力。王は、いない。ストレインが王に従い染まる事例もあるが、多くは王を持たずに生きて死ぬ。それが恐れられる理由のひとつである。どの色にも所属せず力を持つ者を、力を持たぬ者は畏怖するのだ。なんの為の力か、なんの為の命か。解らないから。
くだらない、とずっと思っていた。なんの為の力なのかなど当人たちが知りたいであろうことを周囲が求めるなど。決めるのはストレインたち自身であって、周囲ではない。なのに問いの答えが無いことに不満を覚え、不安を抱き、懐疑的になる。なんの為に生きているのかなど答えられる者がどれほどいるのか。伏見でさえ、未だはっきりと答えられぬ問いだ。ただ生きているから、生きている。その程度の答えしか出せない。

だが、伏見は確かにあの時、畏怖を抱いた。
木野花は笑う。
他の襲撃地点にはまた別のストレインが配置されているのだろう。一人で対応することが当然のように能力を駆使し、襲撃者を殲滅した。いつものの事だからとでもいう様な手慣れた動作で、なんでもないことのように。そうして、笑いかけるのだ。いつものように。

伏見君、と。



「どうでしたか、彼女の戦闘は」
「…戦闘と言えるんですか」
「見事でしょう」

 監視の報告をと呼び出され、訪れるのはいつも通り宗像の執務室だ。地位に相応しく、豪奢な調度品の数々。存在を主張することはなくともふと目を向けてしまう作りは美術品と呼ばれる物だからこそなのだろう。その部屋の主は伏見に背を向け、外の吹雪に目を向けている。声音はいつも通り柔らかい。それがなお、胸のざわめきを強くさせた。
 吹雪によって視界が閉ざされた中、なにかが雪の下から現れ、それが命を奪っていく。よほど訓練された者であっても、能力者に対する対処法はそう無いだろう。ストレインの能力に統一性はない。能力が稀であればあるほど、情報が無ければ生き残るのも難しい。そういった点でも木野花の能力は、向いていた。遠方から身を隠しながら複数に対して攻撃を加える。あれ程のことが可能なら、確かに一人で十分だ。その事実がまた一層、伏見とって苦々しく感じられた。

宗像は伏見に監視を命じた。木野花沙耶というストレインの、価値をはかる為に。

なんのために。

無論、言うまでもない。あれが、宗像にとって有益な駒であるか。ひいては国にとっても。

 伏見とて王から与えられた力があるが、木野花と同じ働きをとなると難しいだろう。与えらえた力は、率いる者がいてこそ十分に発揮されるのだ。色に属し、同じ色を持つ者と共にし、王に従う。これは、そういう力だ。
兵器にも等しい力。それは木野花に会う前からあった認識だ。だが、それを目の当たりにして思う。あれは兵器だ。人に害をなす、殺める力。ちらりと木野花の笑みが掠めたが、それを思考から追いやる。今は必要のないものだ。

「近く、大規模な戦闘があります」
「…」
「雪ばかりの土地とは言え、この辺りではまだ辛うじて裕福ですから周囲には魅力的なんでしょう」

辛うじて。声に出さず胸の内で繰り返す。それはもう、裕福とは言えない。そんなことは宗像とて重々承知しており、恐らくは誰かに向けた皮肉である。
ガタガタと二重になった窓が吹雪に打たれては鳴り響き、暖炉の炭がぱちぱちと弾ける。だのに、ひどく静かだと不意に思った。

「彼女を含め、多くのストレインにはその戦闘に参加してもらう予定です」
「…あの力は、対人戦なら効果的ですが兵器に対しては効果は低いのでは」
「それはまた別のストレインが打って出る予定です」
「…」
「君も、知っていますよね。赤にいる少女のこと」
「…多少は」

 伏見が赤に居た頃に紆余曲折を経て、赤に留まることになったストレインの少女。赤い瞳は心の内さえ明け透けに覗けそうな聡明さがあって、目を合わせるのが苦手だった。木野花のような戦いに長けた力は無いが人には見えないものを見ることには長けており、希少さ、有益さにかけてはあちらの方が僅かに上だろう。どこまでも利用する側の思考である自分に不思議と安堵を覚える。そうしたことを考えるのが、伏見の思う、自身の役割だ。

「彼女がこの雪はもう止まないと、告げたそうです」
「…」
「世界はゆっくりと、滅んでいると」
「それは、」
「知っているのは赤と、私と…白銀が知ったなら黄金も当然聞いているでしょうね。いえ、あの二人は以前から知っていたのかもしれません」
「…」
「灰と緑も…伏せられたことには敏感ですから、知っていると考えて良いでしょう」

 轟々と窓の外で荒れ狂う冬の嵐。誰もが微かに感じながら明確な言葉にすることを避けてきた。
それをあの子供が口にした。なにを見て、なにを思ったのか。小さな身体が受け止めるには重い未来。そうして伏見たちにとっても重い言葉だ。神託にも等しい予言。

「…俺に、何か命令が」
「今のところは、彼女の監視だけで結構ですが会議の時には君にも同席してもらいます。いいですね」
「…解りました」
「もう下がっていいですよ。昨日の今日で君も疲れたでしょう」

 気遣いのような問いかけには答えず、そのまま退室した。疲れた。そうだ、疲れている。単にあの上司との会話に気疲れしたというのも大いにありえるのだが。
食事をそういえば今朝はまだ摂っていないことを思い出す。いつもは食事の時間になると木野花が声を掛けてくるのだが、溜まった書類等の処理があることを理由に監視を八田に任せ宗像に呼び出された時間まで自室に籠っていたのだ。最後に口にしたものを辿る。そう、昨夜戻ってからホットミルクを飲んだことを思い出す。木野花が好む砂糖を入れた、甘ったるいはずのそれの味は思い出せない。甘かったのか、苦かったのか。ただひたすらに目の前のそれが、伏見の知っているものなのかという違和感が味覚すら奪っていた。
木野花は気付いただろうか。少し離れていたとは言え吹雪の中、会話をする距離にいたのだ。無意識のうちに剣に手が触れていたのを見咎めていてもなんらおかしくはない。だが、もし気付いていたならそうと知った上であれは笑っていたことになる。
―――笑っていたのだろうか。
本当に?
 笑みを浮かべていた。いつもの様に、淡く、柔らかく。さぁ帰ろうと明るい声で。足取りは軽やかだった。雪の中を歩くのも慣れていて、伏見の方が歩みが遅かったくらいだ。なにか話していた気もするが、吹雪の中ではよく聞き取れずしかし歩みを止めて聞きたいとも思えず口を噤んでいた。普段とて伏見の口数はそう多くないことを木野花はよく知っている、はずだ。ならば返事がないことくらい承知の上だろう。
なのに、なにかを聞き逃してしまったのような気がしてならない。

 止まない雪が、冬の嵐が、未だ外で荒れている。



 力があると気付いた時にはもう、今のような状態だったと思う。親がいたような気もするのだけど思い出すには声も姿も曖昧で、思い出せるほどの過去も無かった。そうしたぽっかりと空いた穴を埋めるように力は強く、木野花の意志に応じて植物は自在に成長を遂げる。
 寂しくはないか、とかつて木野花に問いかけた者がいた。白銀の流れる様な長髪が美しい、悲しみの色を宿した人。
いいえ、と答えた。肉親はいなくとも、一人きりの異能の力だったなら寂しさはあっただろうが同じようなストレインたちがいるということは木野花の孤独を癒した。その他のストレインたちと特別親しい訳ではないが何かに所属し、持て余した力の使い道を決められるというのは存外楽だ。どうして、何故、と考える必要がないから。だから、虚しさはあっても寂しくは無い。その人は、やはり悲しそうにそうか、と呟いた。
その後、再び会うことは無かったが身なりから貴族か軍の上層部だったのではないかと今になって思う。
 命じられるままに青へと移り、監視が付きながら日々を過ごした。いや、過ごしている。監視と言っても行動が制限されることはなく、逆にしたいことの多くが許されるようになった位だ。自由になる時間が増え多くの書物に触れることも許され、市街地への外出も前よりもすんなり許可が出るようになった。他のストレインたちも数名、同じように隊を異動し監視がついていると聞く。その目的を、木野花は知らないし検討もつかない。ただ、研究か何かの選定ならばあまり痛くないものであればいいとぼんやり思う。傷の治りは常人よりも早いけれど(ストレインの能力にもよるだろうが)痛みは変わらないし傷が酷ければやはり死ぬのだから。

「…伏見君は、どうしたら笑ってくれるかなぁ」
「…は?」
「八田君は見たことある?」

 記入を命じられたらしい書類に向かい頭を抱える八田に問いかけると、どうだったかと思考は書類からすぐに外れた。飽いているのが安易に窺える。

「あいつ、割と会った頃からあんな感じだったぜ」
「でも付き合いは長いんでしょう?」
「まぁ…」
「じゃあ一回くらい笑ったところとか見たこともあるんじゃない?」
「そーだなー…、あー…。…無かった訳じゃ、ねぇけど」
「えっ、やっぱりあるんだ!」
「つっても俺だって一回あるかどうかだぜ」
「…そんなに希少なの」
「…レアって言えばレアだな」
「そっかー…、いいなぁ」
「なにが」
「私も伏見君が笑ってるところ見てみたい」
「…なんで」
「…友達への第一歩として?」

 なんだそれ、と八田は笑うが木野花はいたって真剣だった。同じ年頃の人たちはストレインの中にもいたが親しくはなれず、監視という役割だからとは解ってはいたが近くにいる彼とは親しくなりたいと思ったのだ。
とっつきにくさはあるけれど、問いかけには答えてくれる。それだけでも十分に優しいと、思った。
ストレインと関わりを好まない人は多い。木野花自身同じストレインに話しかけることは当たり障りない程度のことで、任務で必要なことが主だった。それが当然のことで、日常だ。ストレイン同士の馴れ合いさえ恐れられていることを知っているから、同種とも言える人とさえ距離があった。それを寂しいとは思わないけれど。
だが伏見は木野花との関わりを任務だとしても受容した。色に属しているから、と言うよりは伏見自身の能力が高い故にストレインに対する恐れが無いのだろう。能力がなんであるかを理解しているなら、青の能力で対処は十分に可能だろうから。
初めての、普通と言っていい会話。普通が許されないストレインにとってそんなありきたりさがどれほど貴重なことか。だから、出来るならもう少し彼に近づきたいと木野花は思った。異性であることが妨げになっているかもしれない、とちらりと過ったがどう考えても伏見がそうした目線で木野花を見ていないことは解りきっている。そんなことを望んだりはしない。せめて、彼のこぼす笑みを見てみたいのだ。

(ぜいたくになった)

もっと、と欲しくなっている自分に気付いて呆れてしまう。それこそが伏見が嫌っていることで、置かれている距離の意味であるのに。

「八田君と、伏見君は…友達?」
「……昔は、そうだった」
「昔は?じゃあ今は?」
「…わかんねぇ」
「…解らないの?」
「あいつがどう思ってるかなんて、俺に解るかよ」

 その声が僅かに辛そうで、それ以上追及することは出来なかった。2人の間には何かしらの蟠りがあるらしい。そこに自分が踏み込んでいい筈もない。ああ、でも。やっぱり笑って欲しいな、と思う。八田が笑うと伏見は舌打ちをするけれど、お決まりの様な、じゃれ合いの様な言い合いは木野花には楽しそうに映っていたのだ。八田のように憎まれ口をぶつけあう関係も楽しそう、なんて思ったこともあるけれど自分がそれをするにはどうしたって向いていない。あれは八田だからこそ出来ることだ。自分だったらなんて、欲張りになっていいような自分である筈はない。解っているのに、望んでしまう。

「そんなの、そのうち見れるだろ」
「…うん」

でも、そのうちなんて言っていられる程許された時間はきっともう無いよ。八田くん。
青へ移された理由さえろくに知らされてはいないけれど、これがずっと続くはずが無いということくらいは薄々察している。頭を乱暴に掻いて、再度書類に向かう姿に苦笑を零しお茶を淹れるねと声をかけた。

「…お前はさ、多分、一番あいつに近いとこにいるよ」
「え?」
「だから、んな悩むことないっつーか…、その、猿だって悪く思ってないっつーか…」
「…」
「木野花が思ってるより、深いとこに入ってる、と、…思う」
「…多分?」
「多分」

なぁに、それ。思わず噴きだしてしまう。八田は頼もしく笑みを浮かべて断言する。だから、大丈夫だ。根拠なんて無い、明確な理由だって無い。それなのにその言葉は不思議と力があってあたたかいのだ。それはきっと彼があたたかい人だからだろう。

「じゃあ、そのうちに期待にしようかな」
「そうしとけよ」

 優しい時間を過ごすことの幸福。それは確かに私を幸せにしてくれた。増えた私物、数冊の本、淡い青色のマフラー。呼べば応えてくれる声。向けられる笑み、私の名を呼ぶ声。幸福だ、と思うのに同じくらい怖くなる。これらを手放さなければならない時、私は前の様に過ごせるのだろうか。ただぼんやりと時が過ぎていくのを待つような真っ白い日々を。敵をどう迎え撃ち早々に切り上げる方法を考えるばかりの日々を。一度手にしたそれは、決して私のものだった訳ではない。仮初めに与えられた、ほんのひと時なのだ。

なのに(だからこそ)欲しがってしまう(求めてしまう)想像することすらままならないあの人の笑みを。ただ、その理由になりたいのだ。その理由は自分ですら未だ知らぬまま。



 戦争だ、と告げる声は冷え冷えとしていた。石造りの廊下はひどく寒く、屋内だと言うのに吐く息が白い。本部とは違いここの作りは古く、修繕も改築も間に合わせ程度でしかない。周囲の国に比べれば豊かとされるこの国でさえ、こうなのだ。怒鳴り散らしたい衝動が不意に沸いて、舌打ちをする。前線への出頭を命じられた女は真っ直ぐにこちらを見てから視線を外した。

「…時間はいつ?」
「夜明けまでには位置につくように、という命令だ」
「じゃあもう、半日くらいしかないね」
「したいことがあれば許可をするよう言われている。なにかあるか」

いつからあの上司はそんなお優しくなったのか。情が無い人間とは思わないがそんな許しを出せるほど今は猶予がある時なのかと考えてしまう。それともそんな情が出てしまう程、この国はどうしようもないのかもしれない。だとして、それならばこれを前線に送り出すことに意味はあるのか。

―――あるだろう。木野花の戦力は重要なものだ。

無ければ無いで対処は可能だろうが、有れば戦術の幅は広がる。使えるものは使わねばならないこの戦況で甘い考えをする人間ではない。宗像も、そして伏見も。

「伏見君」
「…」
「お腹、痛いの?」
「…は?」
「だって、なんだか辛そう」
「気のせいだ」

不意に木野花を手が伸びて、頬に触れる。細い指は冷えていた。たったそれだけのことに、ひどい痛みを感じる。無意識に眉間に皺を寄せ手でそれを振り払うと、そうされると解っていたようにすぐに腕をおろしていた。

「やめろ」
「あのね、伏見君」
「…」
「私、伏見君の笑った顔が見たい」

それが私の望み。

そう言って笑った木野花の願いを叶えることが、どうして出来るだろう。
木野花は、正しく理解している。自分への命を、その役割を、その使い道を。笑えない。出来るものか。言葉はどうあれ伏見はこう言ったのだ。戦場で死ねと。

「わがままでごめんね」



 古い本には世界にはかつて季節があって、冬の次には春が来るのだと書かれていた。生まれた時から降り続いている雪は、過去には永遠に振り続けていたわけではないらしい。春。春とはどんなものだろう。施設内に僅かにある植物はとても貴重で、かつては一面の野が広がっていたらしいというのはあまりにも現実味がなかった。
上着がいらないほど暖かくて、突き刺さる程痛みのある冷たい風は吹かないらしい。挿絵からどうにか想像してはみたが、これだというものは浮かばなかった。ただそんな世界なら、彼ももっと生きやすいだろうかと想像する。
厳しい寒さの中、佇む彼はとても美しいけれど触れるには少し躊躇う。

「なんて、初めて触っちゃったけど」

最後だから。なんて言い訳をして触れた彼の頬は温かった。

望むことを、聞いてくれた。そうして、やはり願うの彼の笑みだけれど前とは少し違う。
私が、いなくても笑ってくれたらいいな、と思うのだ。毎日じゃなくてもいい。眉間に皺を寄せて、呆れたり怒ったり、困ったり。時々でいい。笑って過ごしてほしい。彼がそれを望んでいないことは解っている。これは、私のわがままだ。でも願いなんて、わがままのようなものでしょう?と誰に聞かせるでもない言い訳を考える。

雪が頬を打つたびに皮膚が切れそうな錯覚を覚える。
想像してみる。春がきた世界を。彼にとって、あたたかい世界を。そうすればこの力もあたたかいものになるような気がして。

己の力は植物を操ることだ。深い深い雪の下にある植物をコントロールしている。出来るのは足元にあるごくごく狭い範囲のもの。それを広げようとしたことは無かった。そんなことせずとも命じられたことは十分に果たせたから。
でも、今、しようとしていることは今までの自分とは桁違いのことだ。うまく出来るか、不安はある。下手をすれば暴走をして味方すら巻き込む心配もあったが、幸い今回の前線には自分だけだ。ここで使い潰されることに恨みはない。むしろ、一人であることに感謝する。

冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出す。

遠く、轟音が聞こえた。始めるなら、きっと今。














もう二度とは来ないと思われた春が、戻ってきた。どこまでも続く雪原は緑の原に、吹雪は柔らかい風に。世界は色を取り戻した。

「あったかい、ねぇ」

木野花の言葉に伏見は答えない。答える言葉を持っていないから。背負った女は軽く、力は入らないようで声もずいぶんか細い。その声を、聞き逃すまいとする自分を伏見はほとほと嫌気がさしていた。
木野花のもとへ駆けだした理由も解らない。ただ衝動だけで誰かのもとへ行くために走った自分が、解らない。認められない。女を背負って、逃げるあてもないくせに奪われないよう、せめて、その命が尽きるまでは、守りたいなんて。あまりにも愚かで、身勝手で。

「伏見、くん」
「……んだよ」
「来てくれて、ありがとう」

頬を伏見に寄せて、木野花が言う。違う、と強く思う。ありがとうなど、言うべきではない。伏見はもう戻らぬだろうことを解っていて前線へ送り出した。ならば、言うべきは恨みつらみだ。だが、解っている。知っている。木野花という人間を、伏見はもう嫌というほど、知っている。

「お前の、ためじゃない」
「……うん」

決して永遠ではない、束の間の春のために命と力を使い果たした。赤の少女が言った未来の言葉が外れることは無い。
力が入らず垂れるだけだった腕が伏見をゆるく囲う。抱きしめると言うには、あまりにも弱い力だった。

「わたし、伏見くんがね」
















2024/05/12 

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