617Patroclus


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Crying for the moon.

解釈小説です。



彼女との出会いを思い出す。その場にいる誰よりも通る声で、背筋を伸ばして、目線を合わせて、堂々と簡潔な自己紹介をした。

「はじめまして、マーサ・べハムフィールよ。よろしくね」

軍人。それも女。似た職業というのもあって印象強かった。それと同時に、同族嫌悪のようなものも感じた。きっと俺はこの女と一緒にいてはいけない。そう、直感的に感じた。



マーサは世話焼きで仲間思いで、荘園の皆に平等に接していたし、気にかけていた。だから彼女の周りにはいつも人がいた。俺も例外なく、彼女から顔を合わせる度に声をかけられた。挨拶から始まり、世間話だったり、試合の話だったり、騎兵隊や軍の話も勝手にしてきた。
俺は彼女と必要以上に関わる気なんて全くなくて、適当に相槌を打っていたので正直最初に話していた内容は覚えていない。馴れ合って、情が湧けば試合にも集中出来なくなる。俺は当時、このゲームと戦場を重ねていた。情けは無用、一瞬の油断が命取りだ。だから誰とも深く関わりを持とうとはしなかった。彼女にもそれが伝われば、自然と放っておいてくれると思った。だがそうはいかなかった。マーサは思った以上にしぶとかった。

その日、俺はダイニングで試合の準備をしていた。肘当てのメンテナンスをしていると、隣にマーサが座ってくる。

「あら、ナワーブだけなのね」
「ああ」

そしていつものように話し始める。実はこの辺りも、うろ覚えだ。

「そろそろあなたの話を聞きたいわ」
「……なぜあんたに話さなければならない?」
「相互理解は必要よ。試合にも活かせるじゃない」
「試合に必要な情報は話したつもりだけど」
「戦争の話とか?だけど私、あなたのことまだ全然知らないわ」
「誰もが自分のことを簡単に他人に話すと思うなよ」
「……そう、じゃああなたが話してくれるまで私は私の話をするわね」

強情だし、何を言っても無駄だと諦めた。まだマッチングはしない。早く誰か来てくれ。マーサは紅茶を一口飲んでから続ける。

「私は空を飛びたいの」

そう、この一言だけはちゃんと覚えている。あの自己紹介のときと一緒だ。よく通る声で、ハッキリと言った。

「……空?」
「そう。自分の飛行機を操縦するのが夢なの。その夢を叶えるためにここに来たの」
「へえ、それはまた大層な」
「馬鹿にしてるでしょ、女の癖にって」
「なにも言ってねえじゃねえか」
「……ここはまだ自由だわ。誰にも強制されないし、綺麗な言葉だけを使わなければいけないわけでもないし、大きな口を開けて食事をしても怒られない。でも、私はもっと自由になりたい」

「あなたは、何か夢はある?」

ああほら、俺の勘は間違いない。





それから何週間か時間が経って、俺達はそれなりに荘園に馴染んできた。お互いに少しずつ会話も増え、仲間意識も生まれ、試合を楽しめるようになってきた頃だった。まあ、十分殺伐としたあのゲームを「楽しい」と思う時点で大分バグってんだけどさ。

マーサは相変わらずだ。俺が試合と食事の時間以外で見かける時は、大抵談話室で誰かと話しているか、ダイニングで信号銃の手入れをしている。あの後も俺の反応は悪く、彼女も諦めたようだ。目を合わせても微笑むだけで、以前みたいにわざわざ話しかけてくるようなことはなくなった。
俺の脳裏にはずっとあの言葉がチラついている。
「あなたは、何か夢はある?」
何も答えられなかった、質問。
ずっと夢なんて考えている余裕もなかった。そんな環境にいた。雇われ傭兵の身で、金のために銃を持って、人を何人も殺して、戦う方法しかわからない。生きていくためには戦わなければならない。地獄だ。思い出したくもない。仲間が何人も死んだ。敵も死んだ。俺は生き残って、また金のために、ここにいる。
こんな状況にいても夢を語る、彼女が心底理解できなかった。実戦経験もないくせに、地獄を知らないくせに、あんなに瞳を輝かせて、夢を語る。なんておめでたい頭。俺、あんたのこと、もっと現実主義者だと思ってたよ。

「思い詰めてる顔だね。隣いい?」
「……イライか。どうぞ」
「ありがとう。珍しいね、この時間にナワーブが談話室にいるなんて。いつもはもう寝てるよね」
「なんか夢見が悪くてさ。目が覚めちまって、二度寝する気にもなれなかったから水でも飲もうと思って」
「そうか、じゃあこの後はゆっくり眠れるといいね」
「ああ……」
「……何かあった?」

さすが、察しがいい。いや、俺がバレやすいだけなのかな。普段はフードで誤魔化しているけど、今はつけてないから。俺は昔から表情に出るタイプだった。戦場での緊張感を思い出せよ。最近緩みがちだと実感する。

「イライ、空はそんなに魅力的だろうか」
「……これはまた、脈絡がない話だね」
「あんたが聞いてきたんだろ」
「うーん、使い鳥が空を飛んでいる姿を見るのは気持ちがいいけどね。あと綺麗だし。魅力的といえばそうなんじゃないか?」
「……」
「でも、君が聞きたいのはそういうことじゃないだろ?」

そう言って、イライはマグカップを口に持っていく。ほのかにラムの香りがした。

「マーサか」
「……本当に、お見通しってか」
「はは、こればかりは職業だ、仕方がない。まあ、見てれば何となくわかるけど……そうだね、ナワーブは確かに苦手っぽいなあ」
「チェイスも救助も上手いし安定してる。試合では信頼してるんだけどさ。どうも苦手だ。なんか、不安になる」
「……君は多分さ、嫉妬してるんだよ」
「?俺が?マーサに?なんで?」
「君が現実主義者だからさ。彼女とちゃんと話せば分かるんじゃないか?少なくとも僕は、君が意地を張っているだけのように見えるけどね」
「……あんたも、相互理解とか言うわけ?」
「そんな難しい話じゃないよ。出来るなら何事も波立たない方がいいだろう?」
「そりゃあ、そうだけど……」
「それに、彼女は君が思ってるほど弱くもないし、強くもないよ。これは彼女とちゃんと話した僕の言葉」

イライはそう言って微笑んだ。よくわからない。こんな話をしてしまったのも、自分らしくない。多分変な夢を見たから不安になっただけなんだ、マーサのせいじゃない。もう夢の内容なんか覚えてやしないけど。

「もう寝よう、明日に響く。上手くいくといいね」
「……ああ、ありがとう。おやすみ」

談話室を出て彼と別れたあと、自室に戻っても眠気は来ず、仕方がないからとトレーニングをしているうちに朝を迎えてしまった。ああ、最悪だ。



試合は完璧にこなした。普段と同じように過ごした。何日も寝ずに戦場に潜伏していた時もある。睡眠時間を削ることくらい、俺にとっては些細なことだ。
結局、あの地獄を忘れられない。忘れられないのに、試合以外の緊張感のない時間に慣れ始めている。だから、誤魔化そうとしてもボロが出る。
イライと過ごした夜から、数日経っても睡眠は浅い。それまでちゃんと眠れていたのに、最近は何故か上手く眠れずにいる。まだ生活に支障はきたしていないが、これはどうにかしなければならないな。休める時にしっかり休むことが大事だ。体調管理は怠らないようにしなければ。

「ナワーブ、話したいことがあるんだけど」

夕食後に呼び止められた。マーサだ。久しぶりに会話をした気がする。

「あーー、後にしてくれないか?今からウィリアムと新ステージの話をしようと思ってて」
「すぐ済むわ。できればあなたの部屋がいいんだけどお邪魔してもいいかしら」
「別に……俺は構わないが」

男の部屋に行きたいだなんてセリフ、大胆だな。何も考えちゃいないのか?頼まれても抱いてなんかやらないけどな。

「ベッドに横になって、5分くらいでいいから」
「……なあ、誘ってんならもっと上手い口説き文句を使えよ」
「その口を縫ってやりましょうか?あなたがあまりにも酷い顔をしているから手当をしようとしているんじゃない。自惚れないで」

マーサはそう言いながらいつの間にか持ってきていたタオルを投げつけてきた。蒸されている。熱い。

「すごい隈よ。そのタオル目に当ててちょっとでいいから休んで」

マーサの頑固さは知っているつもりだったので、俺は彼女の言葉に従うことにした。多分こいつ、俺が横にならなければてこでも動かないと思うし。

「……俺、普通にしてたつもりだったんだけど」
「皆は気づいてなかったわよ。あなた誤魔化すのが上手なのね」
「なんであんたは気づいたんだ?」
「そんなの、ずっと見てたからに決まってるでしょう」
「……なんで」
「あなた、眠れてないんじゃないの?そのまま寝ちゃいなさい、ウィリアムには私から言っておくから」
「俺はべつに、頼んでない。恩を売ったって無駄だぞ」
「はいはい」

あれだけ来なかった睡魔が襲ってくる。眠気に勝てなくなる。俺は彼女の困った笑い声を聞いてから、意識を手放した。
彼女は医師ではない。こんなふうに仲間を気にかける必要もないし、わざわざ手当をしてやる必要もない。というか、エミリーがしてくれる方が確実だ。それでも彼女が仲間を助けようとする理由はなんだろう。たしかに俺は、この時初めて彼女のことを考えた。

目を覚ますとちゃんと朝で、俺の瞼に乗っていたタオルはベッドの下に転げ落ちていた。久しぶりに夢も見ず、深く眠った。お礼くらいは言わなきゃな。タオルを拾いながら呟いた。彼女がいた形跡はこれしか無かった。

「ああナワーブ、おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」

ダイニングに降りると、先に座っていたマーサが言った。食事を終えて本を読んでいたようだ。そういえば、彼女は俺より後に起きてくることがないな。いつも誰かを出迎えている。一応お礼を言うつもりで、俺はマーサの向かいに座った。初めて座る位置取りだ、些か居心地が悪い。

「ああ、お陰様で。昨日はありがとう」
「どういたしまして」

借りたタオルを返すと、ふふっと笑い声が聞こえた。エミリーがにこやかに朝食の乗ったトレーを持ってやってくる。マーサの隣の席に着いた。

「昨日のマーサの頼みはナワーブのことだったの?隈の治し方って」
「エミリー、おはよう。そうよ、だってこの人ずっと休まないんだもの。それなら無理矢理寝させた方がいいかなって」

そう言ってマーサはパンチをする振りをして笑ってみせた。なるほど、エミリーに聞いたのか。

「私もう行くけど、よく眠れたならよかったわ。お大事に」
「あ、おう……」

彼女は読書を止めて、颯爽と去っていく。本当にお礼しか言えなかったな。いや、他に言う言葉なんか見当たらないのだが。
またふふっと声が聞こえる。斜め向かいのエミリーがパンをちぎりながらニコニコしている。

「……先生?何かおかしいか?」
「いえ、若いなと思って。でもそう思うってことは私ももうおばさんなのかしら」
「そんなことはないと思うけど……」
「マーサが気になる?でも、マーサは誰にだって平等よ。この前はピアソンさんのこと心配してたし」
「それはもうわかってるよ」

エミリーは小さな口にパンを運んで、たまにスープを飲む。俺も腹が減ってきた。早くトレーを取りに行かなきゃな。俺の分がなくなってしまう。
彼女も綺麗な食べ方をしている。マーサも綺麗に食べていたな。二人とも育ちがいいのだろう、俺とは大違いだ。俺は食事のマナーなんか知らない。

「なあ、マーサはなんであんなに他人と関わるんだ。放っておけばいいじゃないか」
「放っておけない性格なのよ、彼女は」
「あれじゃいつか身を滅ぼすぞ」
「心配してるの?意外ね」
「そんなんじゃねえよ」

イライといいエミリーといい、揃いも揃ってなんなんだ。まるで俺がマーサを気にかけているみたいじゃないか。

「マーサは、よく見てるのね。私は隈なんて気づかなかったわ」
「……でも酷い顔って言われたんだけど」
「私にはいつもと同じように見えたわよ。医師失格かしら」

エミリーはまたニコニコと笑う。大人の女性とこうして関わることなんてそうなかったから、なんというかどう反応すればいいのかわからない。居たたまれなくなって俺は席を立った。





『解読中止、助けに行く!』
マーサは走る。ただただ一目散に、髪を乱して、息を整える暇もなく、ロケットチェアの仲間の元まで走る。そして物陰に隠れる。ハンターの隙を突いてチェアまで距離を詰め、フェイントをかけつつ安全に救助をする。完璧な救助をしてボロボロになってまた帰ってくる。

「なあ、あんたがそこまでして頑張る理由はなんだ?」
「……?何も無いけれど。特別頑張っているつもりもないわ」
「何故何も求めない?見返りが欲しいとは思わないのか?」
「私だって卑しいことは考えるわよ。誰かスポンサー紹介してくれないかな、とか」
「そうじゃなくて……」

試合が終わって医務室で治療をしてもらっているところだった。俺とマーサは酷い怪我をして帰ることが多いので常連のようになっている。
治療を終えて部屋を出る。自然と足が早まった。

「金とか、言うことを聞いてもらうとか、時間とか、なんかそういうあんたの得になるようなことは求めないのか」
「有難いことにお金にも困っていないし私は誰にも頼らずに自分で歩けるわ。私はもう縁をもらっているから十分よ」
「……俺はそれが信じられない。あんたは、怖いよ」
「そうかしら。でもこれが私の役目だと思っているから」

マーサは立ち止まって微笑んだ。いつの間にかダイニングまで来ていた。彼女がお茶を煎れ始めたので黙って席に着くことにした。
ムカムカと、落ち着かない。俺は何も求めないマーサに何を求めているんだろう。

「はい、ナワーブの分」
「あ、ああ、ありがとう」

湯気が立ち込めるマグカップの中身が揺れた。そっと受け取って両手で持つ。彼女も隣の席について一口飲んだ。

「あなた、私のこと苦手じゃなかった?今日はどうしたの」
「……聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」

きっと虚をつかれたような、大きな瞳をさらに見開いて、驚いた顔をしているんだろうな。俺はあんたが怖いから、確認することもできないんだけど。一口お茶を飲んで続けた。

「あんたは、家柄も育ちも良いみたいだし、金だって困らない程度にはあるだろうし、皆からの信頼も厚い。女だけど銃の正確さも身のこなしも男に引けを取らない」
「……」
「あんたには俺みたいに戦争しか知らないわけじゃない。それなりに、可能性がたくさんあると思う。それでも空を飛びたいのか」
「……ええ」
「俺はそれが腹立たしい。戦争のことを何も知らないくせに、俺が持っていないものを持っているくせに、夢だけ語るのが」
「……あなた、私のことが羨ましいのね」

暗転する。
気がつけば、俺はマーサの上に馬乗りになっていた。他に誰もいなくてよかった。大きな音を立てて椅子が転がる。
彼女の表情は動かない。憐れんだ目で、やっぱり真っ直ぐに見てきた。可愛げのない女。

「何故、羨ましいだなんて」
「女の癖に男と同じようなことをして同業を名乗って、自分には無いものを持っていて、自分にはない夢を追いかけてるのが滑稽で、哀れで、羨ましいんでしょう」
「うるせえな!」
「でもあなたは実戦経験を積んだ男だわ。私が欲しくて欲しくて堪らないものをあなたは持ってる。私はあなたのことが羨ましくて仕方がない」

腕を押さえ付ける力を強めた。彼女は顔を顰めるが、抵抗をしない。馬鹿にしやがって。

「こうやって押し倒されて、力で勝てない。あんたは女だ。あんたは飛べねーよ!」
「……じゃあ、私は何に縋って生きればいいのよ!それじゃああの人に顔向け出来ないじゃない……!」

ああ。
ああ、なるほど。
彼女を動かす力はそれか。
自然と力が緩んで、その隙を突いて身体を押され、俺は後方に転がった。彼女は起き上がって服の埃を払う。椅子の位置を元に戻す。

「……ナワーブは、私のこと、女だからって馬鹿にしない人だと思ってた。勝手な妄想ね」
「やっぱあんたは女だよ。男のために動くんだ」
「……そうね」

マーサは最後の紅茶を飲み干して何も言わずにダイニングを後にした。
その日から、マーサとの会話はなくなった。



「今日はまた、一段と暗い顔をしているね」
「……イライ」

試合前、ダイニングに入ってきたのはイライだった。イライは隣に座って梟を撫でる。二人でマッチングを待つ。

「酷いことを、言ってしまった気がする」
「マーサに?悪いと思っているなら謝るべきだよ」
「避けられているんだ、嫌われてんなら仕方がないだろ」
「それは……相当なことを言ったんだな」

イライは苦笑する。そうかもしれないな。
言いたいことを言ったつもりなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。嫌われてもいいと思っていた。あの女がどうなろうと、知ったことではない。

「ナワーブは後悔しているのか?」
「……どうかな。もうわかんねえや。でもイライの言ってたことは当たってたみたいだ」
「僕?何の話?」
「俺がマーサに嫉妬してるってやつ」
「ああ。えっそれは彼女に言ったのか?」
「いや、あいつから言われた」
「ああ、あーー……君達は本当に……そうか……」
「?何か問題あるか?」
「いや、ない、ないけども。お似合いだと思って」
「!?はあ!?」
「本当に見ていて飽きないよ、君達二人。足りないものを補おうと必死だ」
「俺はあんたが何を言っているのかわからない……」
「いいよ、聞き流してくれ。ああ、マッチングしたね」

ぴい、と梟が鳴いた。トレイシーとウィラがダイニングに入ってくる。今日も試合が始まる。

イライは荘園に帰された。ウィラは負傷していて、トレイシーが今チェアにいる。救助するのは、俺だ。
あいつのことを考える時間が増えた。あいつならどう救助するだろうか?一瞬そんなことを考える。言わんこっちゃない、情をかけて自分の判断に迷いが出てしまうのが敗因になったりする。あれだけ気をつけていたことじゃないか。
この試合は負けた。もっと言えば、この後の試合も尽く失敗した。調子の悪い俺を心配する声を聞いた。
それでも、試合には出なければいけない。だって俺は、それしかできない。戦うことの他、わからない。

暗号機が揺れると同時に古傷が疼く。慣れた痛みが騒音と共に襲ってくる。傷口から炎が上がって、悲鳴が聞こえる。痛い、助けて、怖い、逃げて。視界が真っ赤に染まって、呼吸がしづらい。目の前に伸びてくる手を跳ね除けて、睨みつける目を狙ってナイフを投げた。許さない、と叫ばれる。うるせえな。

「ナワーブ!」

顔を上げるとマーサがいた。心配そうな顔をしている。久しぶりに見たな、この顔。マーサと話す時はいつも「久しぶり」と形容している気がする。
彼女の目を見て、思い出したかのように汗が湧き出た。一瞬遅れて呼吸が始まる。ぜえ、はあ。そうだ、解読の途中だった。

「しっかりして、大丈夫?」
「……なんで来た」

だって俺、あんたに酷いことを言ったじゃないか。あんただって俺を避けていたじゃないか。

「戦場に情を持ち込むな、でしょう?あなたさっき二回負傷していたから、そろそろパニックになってるんじゃないかと思って」
「……はは」

わかってんじゃん。わかってないのは俺の方か。
イライの言葉を思い出す。彼女は君が思っているより弱くもないし、強くもないよ。そうなのかもしれない。マーサは俺が思っているよりも頼もしいし、したたかで、情に厚くて、脆い。
認めようと思う。俺はマーサのことが羨ましい。彼女が強く見える。彼女みたいに夢を語れればよかった。

「治療をするわ。三回目なんて無茶しすぎよ」
「いや、治療はいい。この暗号機で最後だ、中治りまで手伝ってくれ」
「わかったわ」

ガタガタと音を立てて揺れる暗号機に息を乱す。度々マーサは心配そうに俺を見やるが、問題がないと判断しているのか、何も言わずに黙々と解読を進める。
こういう距離の測り方は上手いと思うしありがたい。そうだな、多分本当に、会話が足りなかっただけだった。俺が勝手に毛嫌いしていたから、他の人とは上手くいくものも、マーサを相手にすると上手くいかなかったのだろう。

「今まで悪かったよ」
「なによ急に」
「ソーゴリカイも必要だなって」

そう言うなり、彼女は頬を赤らめてそうでしょう!と喜んだ。おお、初めてかわいいかもとか思っちまった。この女相手に。
ウー!とけたたましいサイレンが鳴る。ゲートが開ける状態になった。よしっと気合いを入れてマーサの背中を押す。

「ラストチェイス、引き付けてくる。その間にあんたはヘレナを連れて逃げろ」
「は!?」
「向こうにハッチがあったから俺は地下から行く。なるべく早く逃げてくれ」
「……わかったわ。くれぐれも無茶はしないで」

そう言って、マーサはゲートに向かっていった。
さあて、カーニバルだな。



「すっかり本調子だね。一時はどうなるかと思ったよ」
「ノートンか。心配かけたな、すまなかった」
「別に。ナワーブが元気になってよかった」

夕食を終えて、ノートンが微笑みながら声をかけてきた。周りにそう見えているなら、もう問題は無いだろう。
あれから、少し理解を深めた俺はマーサと話すことが増えた。彼女は女といえどやはり軍人で、話してみれば意外にも会話が噛み合う。この辺りから、最初にしていた会話に無関心だったことを後悔し始めた。一度話してくれた内容を聞き返すと、彼女は前に話したじゃない!ってぷりぷりしながら仕方なくもう一度話してくれる。

「マーサと仲直りしたの?」
「別に喧嘩していたわけじゃねえよ」
「あら、私の話?」

気づけば後ろにマーサが立っていた。試合でつけた傷だろうか、頬にガーゼが貼ってあった。

「マーサ、試合帰り?お疲れ様」
「ありがとうノートン。あなたはこれからよね。頑張って」
「うん。ああ、マーサ、ガーゼが剥がれかけてる。直すよ」
「ああ、ありがとう。自分で貼るのはどうも加減がわからなくて。助かったわ」
「試合で作った傷?顔は気をつけて」
「ちょっと窓枠乗り越えるのに失敗しちゃって……気をつけるわ」

えへ、と照れるマーサ。なんだその顔は。

「……っと、そろそろ行かなくちゃな。これ以上は殺されそうだ」

席を立つノートン。小さな声で耳打ちされる。「君、今すごい怖い顔してるよ」どういう意味だ、それ。

「……?何に殺されてしまうのかしら」
「……さあな」

ノートンに代わるようにしてマーサが席に座った。座るなり距離を詰めて俺に話しかける。だから、距離感バグってるんだって。

「さっきの試合、月の河公園だったんだけど。ちょっと聞いてもいい?」
「ああ、俺も聞きたいことがあったんだ、あのステージ」

こうやって、試合の話をよくする。真面目な彼女の性格や話も、嫌いではない。
もう荘園に招かれてから大分時間が経った。情だとかそういった事も言っていられないくらい、皆と共に時間を過ごしている。マーサのことを知れば知るほど、もっと知りたくなるし、ムカムカして、分からなくなる。なんだか落ち着かないんだ。とりあえず、ひと通り話し終えてからずっと気になっていたことを聞いてみた。

「なあ、『あの人』って誰だ?」
「また突然ね」

マーサは少し驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。あの時、タオルを瞼に乗せて眠った時と同じ声色だ。
『あの人』っていうのは、俺がマーサに馬乗りになった時に彼女が言ったそれだ。余計な説明をしなかったが、彼女もそれは察してくれたらしい。

「気になるの?」
「話したくないことなら無理には聞かないけど」
「別に隠してることじゃないわ。婚約者よ」
「こんやくしゃ」
「もうこの世にはいないけど」

彼女は目を伏せた。見たことない表情をしていて、また胸がざわついた。けれどこの世にはいない、何故かそのセリフに安心してしまった。

「私が殺したも同然よ」
「そいつのために、あんたは夢を叶えるのか」
「違うわ。私は私のために夢を叶えるのよ。でも、そうね、私きっと、永遠に彼のこと忘れられない」
「それは……」
「ナワーブが私のことを聞いてくれるのは嬉しいけど、あまり楽しい話じゃないし。今日はもう終わりにしましょう」

初めての明らかな拒絶。彼女は笑って去っていった。
どうしてこんなに気持ちが悪いのか、この時俺にはまだわからなかった。
ただ、彼女がうまく飛び立てれば良いと、たしかに思い始めていた。





多分、癖なのだと思う。マーサは時折、空を見上げて息をつく。その横顔がとても綺麗だと思うし、何故だか不安になる。それを見る度にまたムカムカが襲ってきてつい、腕を掴んでしまいそうになる。俺は彼女に何を求めているのか、未だにわからないままだ。
マーサのことが気になってしまう。いや、訂正しよう。マーサと彼女の婚約者だ。気づけばそればかりを考えている。
あれからもう一度その男について尋ねてみたが、全然ダメで、最後に「あなたには関係ないでしょう」とまで言われてしまった。そりゃあそうだよな、俺には関係ねえよ。

「なあ、あんた俺に何かしたか?」
「?また突然ね……。なんにもしてないわ」
「じゃあどうしてこんなに苛立つんだ。あんたのことを考えるとムカムカする」
「そう言われても……心当たりが全くないのだけど。エミリー先生に聞いてみたらどう?」
「それが確実か……悪いな、引き止めて」
「こちらこそ、なんだか申し訳ないわね」

マーサはいつだっていつも通りなんだ。誰にだって平等で、何にだって公平で、的確に判断をして行動をする。いつも通り夕食後に呼び止めて会話を始めると、普段と同じテンポで接してくれる。なんだかどんどん、苛立ちが大きくなって気持ちが悪い。エミリーは部屋にいるだろうか。その日、マーサと別れた後そのままエミリーの部屋に直行した。

「先生?遅くに悪い、ちょっといいか」
「ナワーブ?大丈夫よ、入って」

エミリーはドアを開けて俺を招いた。整頓された部屋の中央のソファに促される。医務室に彼女がいないときや軽い怪我をした時、度々ここで手当をしてもらっている。例にもよって、常連だ。

「それで、今日はどこを怪我したの?」
「いや、怪我というか……病気……なのか?」
「?どういった症状?」
「なんだか最近すごい苛立つんだ。腹の底からムカムカしてきて、気持ち悪い」
「それはどういう時に起きるの?試合で負けた時とかかしら」
「それが、マーサを見ると起きるんだ」
「……え?」
「いや、あいつのことを考えるだけでもムカつく。あいつにも聞いたんだけど心当たりがないって言うから、なんか病気にかかったんかなって」

エミリーは驚いた顔をして、困惑しながら続けた。

「ええっと……それはこう、殺意ってこと?」
「違う……と思う……悪い、わからない」
「闘争心ってことかしら……ごめんなさい、心理学や精神科は専門外で。それはいつから?」
「えっと、だいぶ前からなんだけど。酷くなったのは最近だ」
「うーん……ナワーブも心当たりはないの?」

心当たり……。あるといえばあるが。

「……イライに、『君はマーサに嫉妬している』って言われた。それしか思いつかない。だけど……」
「だけど?」
「俺はそれじゃないと思う。なんとなく。だって俺はそれをもう認めたわけだし」

嫉妬ではないと思う。そんなものでは無い。
俺はマーサの人柄に嫉妬した。強くて公平で優しくて、俺にはないものを持っていて、夢があって。それこそ彼女が撃つ信号弾みたいに、俺にとってマーサ・べハムフィールはまぶしい。
婚約者がいたことも、亡くしてしまったことについても語ってはくれなかった。触れられたくない過去なのだと思う。それは理解している。でもこれについて、別に羨ましいとか妬ましいとか思わない。婚約者になりたいわけでも、昔のマーサと関わりたかったわけでもないし。

「……ナワーブは、彼女のことが嫌い?」

エミリーは問う。とても真面目な顔だ。
嫌いか嫌いでないか、と言われれば嫌いではない。最初こそ鬱陶しいと思ってはいたが。でもうん、そうだな、人間的にはむしろ好ましい。嫉妬してしまうほど。

「仲間として、信頼している。嫌いではねえな」
「……本当にそれは『仲間として』?」
「……恋愛感情かっていうのを期待してんのなら悪いけど違うと思うぜ。経験したことがないから知らねえが。……でも、空を飛びたがる奴を地べたに叩き落としてやりたいだとか、そいつの笑った顔が憎いだとか、無欲なそいつの顔面にナイフで傷をつけていきたいだとか……そういうことを思うのは、恋愛じゃねえだろ」
「……」

今度こそ、エミリーは絶句した。

「……確実に言えるのは、それが病気じゃないこと。気持ちをおさえる薬もあるにはあるけど、依存性が高いから……経過を見て、判断しましょう」
「……そっか。でも考えることは出来た。ありがとう」
「いいえ。遅くなってしまったわね、よく眠れるといいのだけど」
「ああ。先生も。オヤスミ」

先生は眉を八の字に下げて微笑んだ。部屋を出ると途端に寒気を感じた。もうすぐ、季節が変わる。



季節外れの雪が降る。レオの思い出は苦手だ。雪に足を取られて走りにくいし、視界が悪い。寒いから試合が長引くと手足が動きにくくなってくる。出来るだけ体力を温存したいところだ。
俺はロケットチェアに座らされたマーサの元に走っていた。ひたすら走って、物陰に隠れて、様子を伺う。今回はキャンプをするハンターではないらしく、姿が見当たらなかったので正面からチェアに向かった。マーサは救助をしに来た俺の目を見て、安心したように表情を緩ませた。

「珍しいな、あんたが捕まってるとか」
「……ファーチェで……進行方向で解読してたのに気づかなくて迂回したら……油断したわ」
「俺としてはなんかキブンがいいんだけどさ」
「なんでよ!っていうか早く助けてよ!」

ハンターは来ない。チェイス中のようだ。救助狩りがないのはありがたい。ウィラがチャットを打っている。『ハンターが近くにいる!』

「まだ耐えられるだろ?あんたなら」
「……どういうつもり?この前も思ったけど……あなた最近変よ」
「変……変かも。あんたがそうやって自由を奪われてんのは、なんだかいいな」
「ナワーブ!」
「なあマーサ、お願いしてみろよ。助けてくださいって」
「ねえ、本当にどうしたの!?」
「……タイムオーバーだな」

4.5割。最良のタイミングでロケットチェアから救助する。本当にどうしたのかね。俺にもよく分からねえんだわ。縄から解かれたマーサはハンターに殴られた傷を押さえながら、怯えたように俺を見る。何が起きたのか分からないといった顔だ。はあ、と吐き出す白い息。依然として降る雪。視界の悪い景色。全てに、彼女の赤い血がよく映える。

「ほら、治療するから」
「……ええ」

そうして俺達はチェアから離れて見つかりにくい場所に移動した。遠くでトレイシーが解読を終わらせる音がした。ぱちん。残り暗号機は2個。
傷を負ったマーサを回復させたくないのが本音だった。弱った彼女が見たくなった。ムカムカしていた気持ちをエミリーに打ち明けた途端に、それがどんどん抑えられなくなっていく自覚があった。
頭を寄せて、傷を見せるマーサの無防備なこと。今なら殺せるなと、一瞬、思った。

「ありがとう」
「ああ。よし、解読に行こう」

そう言って、俺達は別れてそれぞれ暗号機へ向かった。



言葉とは裏腹に、態度や行動に出てしまう。自分の感情と身体が切り離されたみたいで、それを繋ぐなにかが足りていない気がした。もう仲間を失いたくないと思うのに、彼女に夢を叶えて欲しいと思っているのに、気づかないうちに真っ黒な塊がフードの裏から見え隠れしている。大切にしたいと思うし、乱暴にしたいとも思う。感情だけが置いてけぼりだ。

試合は3人脱出で勝った。マーサは脱出できなかった。通電後にノーワンで殴られた。それをゲートの奥から見た。
頭に包帯を巻いて医務室から出てきた彼女は、俺を見て眉を顰めた。

「助けられなくて悪かった」
「いいのよ、勝てたし。お疲れ様。今日はおかしかったみたいだし、あなたももう休んだ方がいいわ」
「マーサ、」
「ねえナワーブ。あなた、もしかして私のことが好きなの?」
「……は」

思わず出た素っ頓狂な声が、自分のものではないみたいに思えて、他人事のようだった。
なんだよそれ。なんで、あんたまでそんなこと。

「……なんてね、冗談よ。忘れて」

足元が覚束無い。地面が歪んだみたいだと思った。だって、なんで、冗談だとか、言ってしまうんだ。あれ、もしかして俺は冗談にして欲しくなかったのか。

「ふふ、自惚れよね、ごめんなさい。そんなことあるわけないわよね。私ももう恋愛なんてしたくないし」

ああ狡いな、希望も持たせちゃくれない。

「おやすみなさ」
「好きだよ」

「多分俺は、あんたのことが好きなんだ」

言葉にしてみたら案外すんなりと受け入れることが出来た。口を突いた言葉でも、言えば本当になる気がした。そうだ、あんただけが特別だった。最初から、あんただけが憎かったよ。
マーサが目を見開いたまま硬直しているので、彼女の左手を取って、両手で包んでもう一度だけ好き、と言った。その瞬間、彼女は覚醒したみたいに、肩を跳ねさせて顔を真っ赤にした。口を一、二度、小さくぱくぱくさせて俯いた。あんた、そんな反応も出来るのかよ。
マーサは俺の両手の上から自分の右手を置き、優しく下ろして、消え入りそうな震えた声で「ごめんなさい」と言った。仕方がないから手を離した瞬間、後ずさって、そのまま自室の方へと走っていく。後ろ姿にはいつもの頼もしさがなかった。

「……好き、か」

口に出せばそれはどんどん形を持っていく。振られてしまったけど、まあ、長期戦ということで。あんな反応を見られただけ儲けもんだ。如何せん俺、戦いには慣れてるから。
屋敷の廊下の、大きな窓から光が差している。今日は月が出ていたんだな。満月になりきれない、中途半端な月がぽっかりと黒い空に浮かんでいた。なんだかまた苛立って、撃ち落としてやりたくなった。

そんで、俺のところまで落ちてきてくれればいいのにな。



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