617Patroclus


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le miroir

CacheCacheとjouer à chatの間の話です。初キス話。本命初心者×恋愛初心者のモダモダと歩み寄りでなんかするにしてもめちゃめちゃ時間をかけていってほしい……。


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 ──現実味が、ない。
 何が、と問われればそれはもちろん、あの石神千空と恋人関係になれたことが、である。

「だって千空ちゃん、あれからなーーーんにも変わりないしねえ……」

 あの日、あの夜。ゲンは千空の作戦によって初めて自分の気持ちを吐露し、晴れて千空とお付き合いすることになった。死んでもバレないようにしなきゃと固く誓って隠した俺の想いは、千空ちゃんが暴いてしまった。ある日目覚めたら、ここは3700年後の世界だよと突然言われたあの日を思い出す。それほど、俺にとっては夢みたいな展開だったんだけれど、あの後を思い返してみれば……。

「んじゃあとっとと宴会に顔出しに行くぞメンタリスト。スイカたちに新作マジックのひとつやふたつお披露目してこい」
「んえ……!?」

 これである。
 千空ちゃんはムードというものを知らない。好きだと言い合った後なのだから、少しくらい照れたり恥じらったり、かわいい顔を見せてくれたっていいのに。まあそんな彼だから好きになったんだけども。惚れたもん負けというやつだ。
 その後宴会では特に話すこともなく、俺は千空ちゃんに言われた通りにマジックをみんなに披露し(浮かれてはいたのでそれはもうすこぶる調子がよかった)、千空ちゃんは千空ちゃんで龍水ちゃんたちとフランソワの新作メニューを堪能していた。そうして何事も無いまま、今日で3日が経つ。俺たちは今まで通りだ。

「やっぱり夢だったのかなあ……」

 マジックの仕込みをしていたゲンは、今日何度目かのため息をついて項垂れた。そういえばあの時は夕陽が嘘みたいに綺麗で、千空ちゃんの瞳も燃えるみたいに真っ赤でとっても幻想的だった。もう何度思い返したかわからないけど、思い返す度にどんどん信じられなくなっていく。だってあの石神千空と思いが通じ合うなんて。科学を何よりも愛していて、恋愛脳を非合理だと言ってまるで自分と関係のないもののように扱う、そんな彼が、俺のことを好きと言ってくれるなんて。幻だと言われた方がまだ納得できそうな気がした。
 夜も遅くて、もう今日が終わろうとしている。こんなことをいつまで考えていても仕方がない。千空ちゃんはもしかしたら他の人に俺との関係の変化を知られたくなくて、だから今まで通りに接しているだけなのかもしれない。明日こそちゃんと話を聞こうと決意して、床に散らかした仕込みの材料を片付けようとした時だった。

「おいゲン。今いいか」
「うわあ!?」

 油断していたところで後ろから声をかけられて、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。声の主は振り向かなくてもわかる。好きな人の声だから。

「んも〜千空ちゃん! 何時だと思ってるの!? ノックくらいしてよォ」
「あ゛ーワリ」

 そろそろ日付が変わる時間だ。もう外で活動している人はほとんどいないだろう。明かりの資源だって無駄にはしたくないし、なんて言ったって夜は冷える。わざわざ出歩く人間なんていないし、千空だって普段はそうだった。

「テメーまだ作業してたのか」
「見ての通り、もう切り上げるところよ。それよりどったの、こんな時間に珍しい。もしかして夜這い?」
「あ゛ー、まあ、そんなとこか……?」
「……え?」

 冗談のつもりで言った言葉の返答は、全く予想していないものだった。
 ──いや、千空ちゃんなら『なんだそれ気持ち悪ぃ』くらい言うでしょ!?
 明らかに動揺しているゲンを横目に、千空はずかずかとゲンの部屋に入ってきて、右隣に腰を下ろした。

「こういうのを聞くべきか俺はわかんねえんだが。その……俺たちって付き合ってるんだよな?」
「ン!?」
「いや、あれからテメーは何も変わりがねえから確認しに来たっつーか。もしかしたらあれが気の迷いで、テメーはなかったことにしたいのかと思ってよ」
「そそそそんなことない!」

 ゲンは真っ赤になって否定する。自分がずっと考えていたことを、同じように千空も考えていたのが少し照れくさくて、それでいて千空の口から言わせてしまったことが情けなかった。

「……えっと。俺もそれ、明日聞こうとしてたよ。千空ちゃんはいつも通りだったから、付き合うと言っても今までの距離感がいいのかなとか、みんなに知られたくないのかなとか思って」
「あー? んだよ、じゃあ明日待ってればよかったわ。別に、どうすればいいかわかんなかっただけだ」
「そ、そっか〜よかった……」

 安心したら一気に気が抜けてしまった。千空ちゃんは壁にもたれかかって脱力する俺を見て、少し考えた素振りをした後、何を思ったのか自分の肩を寄せてきた。

「っ!?」

 ゲンが驚いて千空を見ると、彼は俯きがちにそっぽを向きながらも、少しだけ頬が染まっているように見えた。千空なりの最大の距離の詰め方だったのかもしれない。少しだけ触れ合っている肩が熱く感じる。

「恋人になるっつっても、俺はこの通り何も勝手がわからねえし、テメーに任せることになりそうだがな。それでもいいのか」
「そりゃ、もちろん。エスコートは任せてよ」
「……別に、今まで通りのあの感じも悪くなかったが。俺は正直、変えたくねえわけでもねえ」
「……うん、俺もそう」

 ゲンは耐えられなくなって千空の左手を取ると、千空は一瞬肩を揺らした。そのまま指を絡めて、恋人繋ぎをする。数々の作業や薬品のせいで細かい傷だらけの手は少しだけ湿っている。やっぱり熱いかも、それはどちらの体温なのかわからなかった。全身が痒くなって掻き毟りたかったのは、きっと二人とも同じだ。

「千空ちゃん。もうちょっと恋人っぽいことしてもいい?」
「あ゛?」

 そう言うなり、ゲンは繋いだ手をすぐに離して両腕を広げる。明言しなくともハグを強請っていることは一目瞭然で、普段は遠慮なく抱きついてきそうなものなのに、こういう時の決定権はいつだって千空に譲る。それがあさぎりゲンという男だった。

「千空ちゃん」

 名前を呼ばれて、千空は追い詰められた気持ちになった。観念したようにゲンのそばに寄って背中に手を回せば、案外大きな腕が抱きしめ返す。思っていたより布越しの人肌は暖かくて、心地いい。
 千空を腕に捕まえたゲンは、よしよしと言わんばかりに細い背中を撫でる。千空は普段ならこれじゃまるで子供扱いだと嫌がりそうなのに、何故かこれは嫌じゃなかった。

「やーなんか、遅れてやってきた青春って感じするね〜」
「気持ち悪ぃこと言ってんな」
「恋人になってもドイヒー……」

 嘘泣きでメソメソし出す男を他所に、千空はゲンの体温を満喫する。他の奴らとは違う、いい匂いがすることに気がついて、服に仕込んだ草花かと納得した。
 一方ゲンは、抱き締めたら大人しくなった千空を見て暴れだしたい思いを必死に抑えていた。バイヤー、絶対これ俺の心臓の音聞こえちゃってる。もう千空ちゃんに俺のメンタリズムが通じなくなる日は、そう遠くないんじゃないかなあ。
 しばらく二人はじっと抱き合っていて、ぽつぽつとなんでもない話をしていた。一人が話して、一人が相槌を打つ、それだけを繰り返す。なだらかなトーンの声と体温が眠気を誘う。それでも離れがたくて、ゲンは「そろそろ寝ようか」というセリフがなかなか言えなかった。

「……おい、この次は?」
「ん? 次?」
「ハグの次」

 二人がこうしてからどれくらい時間が経っただろう。もう外はしんと静まり返っていて、夜も深い。そんな中で唐突に千空が尋ねた。ハグの次。その質問を理解するのに、ゲンは数秒固まった。そこに必要以上の言葉はなくて、だとすれば。

「恋人らしい、こと?」
「おー」
「そりゃ……キスとか」

 果たしてこの答えが千空の望んでいたものなのか自信がなかったが、とりあえず答えてみた。もしかしたら期待もあったかもしれない。彼がどんな反応を示すのか、気になったのだ。けれど抱き締めたままだったので、千空ちゃんがどんな顔をしていたのかはわからなかった。まあだからと言って、腕を離す気はないけれど。

「んじゃすっぞ」
「え!? ジーマーで!?」
「あ? なんか問題あるか」
「い、いやないけど……」

 効率厨で合理性の鬼は、速攻でロードマップのコマを進められるだけ進めようとしていて、千空ちゃんらしいなあと思えば思わず笑みが零れた。そんな急ぐようなことでもないのに。
 彼は体を起こして少し離れると、真っ直ぐに俺を見た。凛々しい目付きの視線が、そのまま唇に降りていく。

「本当にするの? 大丈夫? 別に今日じゃなくても」
「……する」

 千空ちゃんは焦ってるみたいだった。でも俺には彼が焦る心当たりがない。千空ちゃんらしくなくて、でもきっと本人が1番困惑しているんだろう。
 彼がごくりと喉を鳴らした後、意を決したように俺の両頬に手を当てて、その唇に自身のものを重ねようとした。ただ、それは叶わなかった。

「……あんだよ」
「やっぱダメ。千空ちゃん、こんな勢いでするもんじゃないよ。それにこういうのは義務じゃない」

 俺は、すんでのところで自分の口の前に指でバツを作って、キスを拒んだ。俺の口元に届かなかった千空ちゃんの唇が、代わりに俺の指に触れる。ふに、と柔らかい感触がして、それだけで嬉しくなってしまうのに頑張って我慢を選んだのは、彼に無理強いさせたくなかったからだった。
 ──前回は、俺が暴かれてしまった。じゃあ今回こそ、メンタリストの出番だよね。

「もったいないじゃない。せっかく付き合えたのにさ、楽しみはもうちょっとゆっくり味わいたいな俺」
「で・た・よ。お決まりの非合理的なヤツな。意味わかんねえ」
「俺に任せてくれるんじゃなかったの」
「う」

 自分の発言を蒸し返されてしまえば何も言えない。千空ちゃんは渋々引き下がって、じっとりと俺を睨みつける。寸止めを食らったはずのゲンはなにもなかったかのように笑って諭してくるので、千空はそれが腹立たしかった。

「はいはいそんな怒んないで。絶対今するより気持ち良くさせてあげるから」
「んだよそれ……」
「それに、千空ちゃんキス初めてでしょ。初めては俺からしたいな。ダメ?」
「……お預けってことかよ」
「そゆこと」

 つまり、ファーストキスのタイミングは全てゲン任せということだ。ゲンがしたいと思った時までお預けらしい。
 依然ニコニコと自分を躱すゲンを見ているとなんだかいらいらする。これは何なんだろう、初めての感情の名前がわからなくて戸惑う。それを宥めるかのようにゲンはもう一度千空を抱きしめて、背中を撫でた。クソ、こいつには全部バレてるのかもしれねえ。俺がこいつから言葉を引き出すのには随分苦労したのに。悪態をつきたくなったのを堪えたまま、撫でられ続ける。
 ──ゲンの手は、不思議だ。細くて華奢に見えるのに、広げてみれば案外大きくて、結構力も強い。努力を重ねたマジシャンの手。それは、普段本性を隠しているこいつ自身によく似ていると思った。

 それから度々二人きりになっては、少しの間だけハグをするような時間が続いたが、ゲンの言うキスのタイミングはいつまで経っても来なかった。



 ──千空ちゃんは、何かに焦っている。それなら、俺がその不安の芽を解消してあげたい。

 その日、ゲンは素材探索チームの方にいた。千空から指示を受けたのは薬草やら木の実やらの採取で、雪に埋もれる前に採れるものは採っておこうと、最近は代わる代わる誰かしらが探索や狩猟に赴いている。
 空は雲ひとつない快晴で、自然そのものの澄んだ空気に洗われるような心地だった。とはいえ時節としては雪が降るまでもう秒読みで、深く息を吸えば喉が一気に冷たくなる。頭も冴えるような気がして、ゲンは考え事をしながら薬草をぷちぷちと採集していく。
 俺たちが互いの認識を確認してから、数日が経った。でもやっぱり、付き合ったからといって何も変わることは無く。少し目が合うのが増えたのと、二人きりの時の距離が近くなったかなって思うくらい。それだけで俺は嬉しくて、もっともっとと欲が出るのを必死に堪えるばかりだった。何度もうっかり手を出しそうになったが、その度にそんな場合じゃないと自分を叱咤して気持ちを鎮めた。こんな時、メンタリストでよかったと思う。焦らしてるのはこちら側のはずなのに、焦らされている気分だった。
 ゲンがしたくなったらすると言ったキスのタイミングは、未だ訪れない。千空が何に焦っているのかわからないからだ。ゲンには全く心当たりがなかったが、千空らしくない振る舞いが気になって仕方がなかった。もちろん、あの夜自分の気持ちを「言わされた」ことへの悔しさもあって、今度は俺が暴く番だと意気込んでいたのもあったのだが。

「だけど千空ちゃん、いつも通りなんだもんなあ……」

 付き合うのがわからないと言っていた。距離の詰め方を探っているのだろう。それは愛しくてかわいいけれど、付き合っていきなりキスは飛躍し過ぎなんじゃないの。まあそれは結局ゲンが持つ千空への願望で、自分は石化前の世界でいたりいなかったりの彼女たちと遊んでいたのだから何も言えない。ドキドキ純情少年を解禁した千空ちゃんはそういうのに興味津々、ってだけならそれでいいんだけど。
 はあ、と息をつくと白い息がもやをつくる。もう紅葉は枯れ始め、本格的な冬がすぐそこまで迫っていた。

「大きいため息だね」
「羽京ちゃん」

 がさ、と音を立てて木々の隙間から現れたのは羽京だった。特徴的な黄色の服に大きな籠を背負っていて、その中には木の実が詰まっている。羽京も今日は冬備えの食糧探索チームにいたらしい。
 彼はそのまま叢から出てくると、「ちょっと休憩」と呟いてゲンの傍に籠を置いた。木の実がぶつかる軽快な音がする。確かにこれは重そうだ。

「わかった。千空のことでしょ」
「ん? なんのこと〜?」
「あれ、違う? 千空もさっき大きいため息ついてたから、てっきり何か共通の悩みでも抱えてるのかと思ったんだけど」
「……羽京ちゃん、メンタリスト向いてるんじゃない?」
「あはは、転職したくなったら考えようかな」

 そっか。千空ちゃんは悩んでるのか。それが原因で焦っているのか、焦っているから悩んでいるのか、どちらなんだろう。
 俺は薬草を摘みながら口を開く。長いこと考えに耽っていたから、自分の手が寒さで少し悴んでいることにその時初めて気づいた。

「午前中に採集したものを持っていったらさ、一人で悩んでるみたいだったから。いつも通り設計とか科学のことかなって思ったんだよね。でもかなり思い詰めてるみたいだったから、何か手伝えることある? って聞いたんだよ」
「それで、千空ちゃんは何か言ってた?」
「それがさ、意外なこと言ってたよ。自分の不得意な分野をカバーするにはどうすればいいと思う、って」
「……へえ」
「得意な人に聞いてみるのが早いんじゃないって言ったんだ。そしたら『だよなあ』って。らしくないよね。千空が一番分かってそうなのに。」
「……」
「なんか頼れない理由があるのかな? なんてね」

 ──羽京ちゃんは、どこまで知っているんだろう。そりゃあそのゴイスーな耳で、科学王国のいろんな情報を把握しているんだろうなとは思うけども。
 俺がその大きな瞳を見つめてみても、彼は「ん?」と言って優しく笑うだけだ。羽京ちゃんは俺が相手にしても一筋縄じゃいかない、数少ない人間の一人だった。

「……どうだろうねえ。もしかしたらメンタリストの出番かも」
「かもね。後で聞いてみたらいいと思うよ」

 そう言うなり、彼はいたずらっ子が見せるような笑顔を浮かべて籠を背負い直した。あ、これバッチリ色々バレてるんだろうな。さすが、その洞察力には適わない。そのまま森の奥へ入っていく黄色い背中を見送りながら、ゲンは肩を竦めて作業に戻った。



 摘んだ薬草は乾燥させるものもあれば調剤するものもある。俺には細かい種類はわからなかったけど、なんにせよ葉っぱは傷みやすいので、必要量を採集したらすぐに作業を切り上げた。
 ゲンがラボに戻ると、千空は一人、フラスコの面倒を見ていた。片手にスポイトを持ちながら、何やら真剣な表情をしている。

「千空ちゃん戻ったよ〜……あれ、クロムちゃんたちは?」
「おー、あいつらは今出払ってる。コクヨウんとこ行ってから暖炉のメンテナンスだ」

 千空はフラスコから目を離さずに続ける。

「あ〜……昨年はスチームゴリラ号に積んだりもしたしね……ていうか人増えたもんねえ」
「ま、その分マンパワーも増えておありがてえこった。で、収穫はどうだった」
「千空ちゃんに言われたもの全部は摘めなかったかも。やっぱりもう枯れ始めてるね」
「しゃーねえ、ある分は備えに回す」

 ──よくまあ、こんな具体的に指示ができるものだと思う。千空ちゃんは、科学だけじゃないのだ。だからずっと忙しい。

「……ねえ千空ちゃん」
「ちょっと待て、あともうちょいでこっちの調合が終わ……」
「キスしよっか」
「……は?」

 千空ちゃんはやっとフラスコから目を離して俺の方を見た。瞳をまん丸にして、続く言葉を探しているのが、らしくなくて可愛かった。

「したくなっちゃった。今夜俺の部屋に来て」
「あ、お、おう……わかった」

 ゲンがこれだけ待たせた割に、特に理由もなく突然そんなことを言ったものだから千空は驚いた。キス。今日。どうして今日。
 ゲンはそれだけ言うと満足したかのように爽やかに振り返ってその場を離れた。ポカンとしていた千空は、ようやくフラスコの中身に視線を戻してため息を吐く。クソ、調合がやり直しになっちまったじゃねえか、馬鹿野郎。



 千空ちゃんが羽京ちゃんに言ったことは、間違いなく俺とのことについてだ。千空ちゃんは、自分の不得意な分野である恋愛事で悩んでいて、でも俺には頼れない。まるであのウミガメのスープと変わっていない。
 ──いや、変わったか。俺たちはあの時と違って、恋人同士で。だからメンタリストの身分なんて関係なく、俺には直接聞ける権利があるわけで。千空の悩みがそこにあるなら、いっそキスに踏み込んでしまう方がいい。千空の言葉を借りるなら、なんだってトライアンドエラーだ。やってみないことには始まらない。
 ──だから勢いで今夜、誘ってみたけれど。後から考えてみれば本当にいいのかなあ、なんて不安でいっぱいになる。結局ずっと臆病なまんまだ、俺。
 その夜、落ち着きのないゲンが手慰みにトランプを弄りつつ自室で待っていると、控えめなノックと共に千空がやってきた。この前ノックしてって言ったからか、今回は律儀に守ってくれた。

「お疲ー、千空ちゃん」
「おー」

 千空はいつもの調子でずかずかと部屋に入り込み、ゲンの隣に腰を下ろす。ゲンはトランプを一瞬で仕舞って、千空を出迎えた。

「もしかしたら来ないかもって思っちゃった」
「なんでだよ。むしろ待ちくたびれたわ」
「……それならいいんだけど」

 そう言って、ゲンは千空に向かって腕を広げる。千空は何も言わずにその腕に潜り込んだ。これが二人のハグの、お決まりのパターンになっていた。
 ──夢みたいなことが起きてると思う。きっと千空ちゃんに言ったら笑われちゃうね。
 今夜千空がここに訪れたのも、ゲンが待っていたのも、目的はただひとつで。たったひとつの簡単なことだったけれど、二人にとっては大きなことだった。もう余計な前置きなんていらない。
 ゲンは千空を抱きしめたまま、そっと顔だけを離して相手を見つめた。だがそれに反応するように、千空はカチコチに固まってしまった。

「……千空ちゃん、ジーマーで大丈夫?」

──こんなの、口と口を合わせるだけだ。
 ただの粘膜の接触。お互いの同じ臓器を触れ合わせるだけのこと。そうわかっているのに、それだけのことが千空にとってはとても恥ずかしかった。
 待ちくたびれた。そのセリフに嘘はない。でもいざとなると少し怖気付いてしまうのは、仕方ねえだろ。

「……ワリィ。続けてくれ」
「いやこれからキスする顔じゃないのよ」

 続けてくれと言った千空の顔は、決意を固めたように険しくて凄んでいた。まるで睨みつけるかのように見つめられて、ゲンは思わず笑ってしまう。まあ確かに熱視線と言えばそうなんだけど。

「あはは、はいリラックスリラックス〜ちょっと落ち着こ? 大丈夫よ、ちゃんとやるから、ね」

 ゲンはまた千空を抱きしめた。思ったよりも細くて、熱のある体躯。耳をすませてじっとしていれば、布越しに感じる鼓動は少し早くて、それは自分も同じだった。俺の羽織は思ったよりも大きくて、千空ちゃんを抱きしめてしまえばすっぽりと収まる。まるで最初からそうあるべきだったかのように。

「ねえ千空ちゃん。俺本当にね、急いでなかったんだよ」
「……」
「千空ちゃんのこと好きだし恋人っぽいことだってたくさんしたいけど、千空ちゃん前に言ってたじゃない。男同士で抱き合うとか気持ち悪いって」
「それは……」

 それはゲンの最後の予防線だった。千空は知っていた。この男は、無意識に相手によって被る仮面を変えるほど、警戒心が強いということ。千空のことを気遣っているつもりでいながら、ずっと逃げ腰なのだ。この線は、踏み越えなければならない。

「俺は今みたいにこういうことを許してくれるだけで十分嬉しいよ。これからこういうハグみたいにさ、どんどんできることが増えていけたらいいって思って……」
「あ゛ーうるせえ!」

 瞬間、千空はゲンの頬を両手で抑えて、真っ直ぐにその目を見た。ゲンは文字通り目を点にしていてちょっと面白い。それからその黒曜石みたいな真っ黒の瞳に自分が映っているのを見て、距離の近さに少し怯んだ。他人とこんなに近くにいるなんていつぶりだろう。

「テメーは俺のことばかり考えてやがるが、実際テメーはどうなんだ」
「え?」
「俺は、別にテメーに言われたからキスをするわけじゃねえ。俺もしてえと思ったから、今日ここに来たんだ。勘違いも大概にしろメンタリスト」
「な、」
「……あ゛ークソ、小っ恥ずかしいこと初心者に言わせんじゃねえよ……」

 千空はそう言いきると顔を耳まで赤くさせてしまったので、またゲンの腕の中に顔を埋めて、そのまま額をぐりぐりと男の肩口に押し付けた。どくどくと早い心音が聞こえるが、どちらのものかはわからない。それが気になって、思考をチリチリと焦がす。

「……千空ちゃん」
「……」
「千空ちゃんこっち見て」
「なんだ、よ……」

 千空がやっと顔を上げると、穏やかに笑ったゲンの顔がそこにあった。至近距離で見つめられて、またどくんと大きく心臓が跳ねる。ゲンは先程千空がしたみたいに、彼の頬に両手を添えて目を細めた。

「メンゴ。千空ちゃんの気持ち、測り間違えちゃった。メンタリスト失格だよね」

 そのまま親指で、形を確かめるみたいに頬を撫でていく。改めて見る度に整った顔立ちをしているなと思う。頬から降りて唇に触れると、千空はン、と小さく身じろいだ後、居心地の悪そうな顔をして目を逸らした。

「……固まったまんま動かないからさ、やっぱり抵抗あるのかなって思っちゃったんだよ」
「あれは」
「恥ずかしがってただけ、なんだよね?」
「は……っ」
「違う?」
「ち、がわねえ、けど」

 違わねえけど、言い当てられるのも恥ずかしいだろ。

「違わないんなら、目を閉じて。千空ちゃん」

 そしてもう一度、唇に触れられる。千空は一瞬でそういう雰囲気になったのを肌で感じた。さすが舞台を用意するのは上手いな、なんて思いながら目を閉じる。視界が暗闇に包まれれば、自分の鼓動が耳元で聞こえる気がした。
 ──ただ、唇を合わせるだけ。
 だけど、これは恋人同士でしかしないことだ。千空はようやく自覚する。ああ俺は、こいつの恋人になったんだ。
 唇から指を離されたと思ったら、今度は顎に手をかけられる。そのままゲンの気配が近づいてくると、ちゅ、と音を立てて柔らかいものが触れた。
 千空が閉じた瞳を開けば、目の前の男は照れくさそうにこちらを見ていた。

「……こんな感じだけど、どう?」
「……正直、こんなもんか、って感、じだ、が」

 言ってる途中で、自分の顔が熱くなってくるのがわかる。クソ、後から恥ずかしくなってきやがる。

「んふふ、お顔まっかっかにしてる千空ちゃんはなかなかレアだねえ」
「……ゆるっゆるの顔したメンタリストもなかなかレアなんじゃねーの」
「バイヤー、これ以上ポンコツになっちゃったら俺さすがに廃業かなあ」

 ゲンは一瞬見せた照れ顔をすぐに隠して取り繕う。それが腹立たしくて、千空は口をへの字に曲げてゲンの襟元を引っ張った。

「おい。よくわかんなかったから、もう一回」
「ひえ」

 ──嘘でしょバイヤーすぎる。こんなに乗り気になってくれるとは思わなかった。
 想像以上にかわいい反応を返してくれた千空は、こんな時でも真っ直ぐにゲンを見る。すぐに照れ隠ししてしまう俺とは全く違うな。やっぱり俺は、この真っ直ぐな瞳に弱い。

「……もちろん。いっぱいしよ」

 そう言って、俺はもう一度千空ちゃんにキスをした。今度は不意打ちだったので、千空ちゃんは思いっきり肩を跳ねさせていてかわいい。何か言いたそうにしている彼をそのままにキスを重ねていく。

「お、おい」
「んー?」

 ちゅ、ちゅ、と鳴らされていくリップ音は、角度を変え長さを変え、千空を翻弄していく。

「ーっおい! 一旦止まれ!」
「んや」

 ばっと体を離されたと思ったら、千空は唇を震わせて言った。

「い、今のでちょうど十回だ。いきなりすぎんだろてめーは……」
「えっ嘘数えてたの!? ジーマーで!? もしかして千空ちゃん、何回目かとか気にするタイプだった?」
「んなわけねーだろ気色悪ぃ」

 そうかなあ。耳まで真っ赤にしてるあたり、言い当ててる気がするんだけどなあ。わー、千空ちゃんにとっては勿体ないことしちゃったかなあ。

「安心してよ、千空ちゃん。数えられないほどこれからするから」
「……テメーが今まで誑かしてきた女どもが後ろに見えるわ」
「ドイヒー、誑かしてなんてないよ!」
「どうだかなあ」
「……じゃあ今度は、もうちょっと踏み込んだやつ、してもいい?」
「言っただろ、テメーに任せる。勝手にしろ」

 一見興味が無いようにも聞こえる千空の返事だったが、真意は違う。ゲンにはわかる。これは信頼だ。

「わかった。ありがと」

 今度はゆっくりと口付ける。自分の唇を相手のものへ押し付けて、そのまま撫でるようにずらして。それから、下唇を数回食むようにして味わう。唇を離さないまま、けれど舌は入れずに合わせるだけ。じっくりと焦らすみたいに、千空ちゃんを追い詰める。

「……ふ、」
「千空ちゃん、息してる?」
「わかんね……」
「鼻で息するんだよ」

 唇から、離さない。至近距離のまま会話をする。声の振動が伝わってさらにどきどきする。

「鼻息、かかるだろ」
「それがいいんじゃん」
「変態かてめー」

 触れ合うだけのキスがどうしてこんなに卑猥に感じるんだろう。千空はわけがわからなかった。焦らされて、味わい尽くされる明確な意思があるから、こんなにも変な気分になるのか。
 ──やっぱ、しつけーよ、馬鹿。
 キスの経験がない千空でもわかる。ゲンのするこれは長すぎる。そうしてだんだんと力が抜けて、口元が緩んだのをゲンは見逃さなかった。

「、んぁ……!?」

 千空の口腔内にぬるりとしたものが入り込んでくる。ゲンは反射でさらに開いてしまったその口を、こじ開けるようにかぶりつく。

「ふ、ぅ」

 ──千空ちゃんが、耐えられずに瞳を閉じた。
 それが合図のように、ゲンは彼の口内に侵入する。ゆっくり舐めるように歯の間をなぞってから、舌先で上顎をつつけば、わかりやすく千空の肩が跳ねた。
 千空はというと、突然のディープキスを上手く処理できずにいた。頭ではこいつの舌だとわかっていても、初めての感触に腰が引ける。なんだこれ、人間の舌ってこんな感じなのか。自分にだって同じものがついてるはずなのに、自分の舌で触れるそれは俺の意思など関係ないと言わんばかりに動くので、ついていくだけで必死だった。上手く息が出来なくて苦しくて、唾液が飲み込めずに口の端から零れ落ちる。

「んんん、ん! んー!」

 いよいよ酸欠でクラクラしてきたので、抗議のつもりでゲンの肩を叩けば、その手を取られて恋人繋ぎをされた。違う、そうじゃねえ。キスをやめろっつってんだ。
 ちゅ、と最後にもう一度下唇を吸われて、やっと解放された時にはもう、千空の息は上がっていた。

「……こんな感じだけど、どう?」

 ゲンは同じ質問を繰り返す。眼下の少年はぜえはあと肩で息をしていて、そのお顔は真っ赤に染まっていた。バイヤー、ちょっとやりすぎちゃったかな。されるがままの千空ちゃんが可愛すぎたのでブレーキ効かなかったな。

「……もうちっと……手加減しろ、ばか……」
「め、めんご……」

 ダメだ。何してもかわいい。キスした後の石神千空はこんなにもかわいい。誰にも見せられないような緩んだ顔をしていて、その破壊力がまた桁違いだ。こうして俺がぐらぐらと頭を揺らしている間も、彼は続ける。

「わ、悪くは、なかった」
「……っ!」

 それは俺の質問に対する返答だった。素直に感想を呟く千空ちゃんは口の端から垂れた涎を拭っていて、それすら色っぽくて。頭をハンマーで殴られたような衝撃に任せて、俺はその手を取り上げてもう一度口付けた。



「そろそろ教えてよ千空ちゃん。なんで焦ってたの?」

 初めてのキスの割にはがっついてしまった。そんなわけで気づけば思ったよりも時間が経ってしまい、夜遅い中外を歩くのは危ないからと千空はゲンの部屋に泊まることになった(もちろん、今まで二人で寝ることはあっても今は状況が違うため、ゲンの心境は大荒れだったが)。努めて平然を装う俺に対して、千空ちゃんは何も気にしていないようだった。ジーマーでドイヒー。

「あ゛? 何の話だ」
「キスの話。千空ちゃんがどうしてあんなに性急だったのかわかんなくて」

寝支度をしながら、ゲンは千空に訊ねる。ようやく答え合わせの時間だ。

「ただの興味なのかなって思ったけど、恋愛に全く興味がなかった千空ちゃんが突然興味を持つとも思えなかったし。造船もキリのいいところまでいってるから特段時間に余裕が無いわけでもなかったでしょ」
「……」
「いざするってなった時には固まっちゃって。それはかわいかったんだけどさ、それほど緊張するのになんでそこまでしてしたかったのか、わかんないんだよ。俺のこと、す、好きって言ってくれたけど……多分、理由は性欲じゃないでしょ。どう? 正解?」
「……正解だ」
「百億万点?」
「ククク。あ゛〜くれてやる。やっぱメンタリスト様には恐れ入りまくるわ、隠し事はできねえな」

 千空ちゃんはそう言うと、ばつが悪そうに続ける。まるでいたずらがバレた時の子どもみたいに。

「……経験値が、足りねえだろ。俺じゃ」
「……え? 経験値?」
「別にテメーの昔の女に嫉妬するわけでもねえ。ただ今まで俺はこういうのに無縁だったからな、前にも言ったが全部テメーに任せることになっちまうだろ」
「そ、そんなの、気にしなくていいのに」

 千空ちゃんは人を頼れる人だ。誰にだって適材適所、仕事を割り振る。「任せる」が言えるのは美徳だ。だからいつも通り、俺は何も気にしていなかった。千空ちゃんの初めての相手になれたことが嬉しくて、舞い上がっていた。恋愛経験のない千空ちゃんが、俺を頼ってくれるのは当然のことだと思っていた。まさかあの千空ちゃんがそれを引け目に思っているだなんて、考えもしなかったのだ。

「俺みてえな初心者が相手じゃ、テメーはつまんねえんじゃねえかと思ったんだ」

 そう言って、千空ちゃんは俺から目をそらす。大切な時は人の目を見るけれど、自分の弱い姿は見せようとしない。この子はいつだってそうだ。
 ──つまり千空ちゃんは、俺と付き合うにあたって俺との恋愛経験の差を気にしていたということ? それで焦っていた?
 動揺を隠せなくて、一周まわって表情筋が動かない。やっぱりこれ、俺の都合のいい夢なんじゃないのかな。

「……何してんだテメー」
「夢かと思って」
「馬鹿か」

 俺は自分ののヒビが走る頬を思いっきり抓った。しっかり痛くて、熱くて、ヒリヒリする。ちゃんと現実だった。千空ちゃんはそれを呆れたような目で見る。

「千空ちゃんもしかして、結構ジーマーで俺のこと好きだね……?」
「あ? 最初からそう言ってんだろが」

 信じていなかったわけじゃない。それでも、やっぱりいつまでも現実味がなかった。いくら頬を抓ってもきっとずっと疑ってしまう。だって俺はずっとこの気持ちを隠して生きていく覚悟でいたから。心のどこかで、『付き合ってもらってる』と思っていたのかもしれない。
 ──千空ちゃんは、また真っ直ぐに俺を見る。真っ赤な双眸が俺を捉えて離さない。その瞳はあの夜と同じように燃えていて、とても綺麗で。
 ゲンはようやく、受け入れられると思った。千空はゲンと同じ気持ちを持っていて、自分はもう片想いをしなくていいんだってこと。そう思えば胸が詰まって、また何も言えなくなってしまったから、代わりに腕を広げてハグを強請る。

「……くく、テメーも俺のこと、相当好きだな?」
「多分千空ちゃんが思ってるよりずっとずっと重いよ、俺は」
「あ゛ー、まあ、覚悟の上だわ」

 ゲンのおねだりに笑って応えた千空は、その胸に体を預けて抱きしめ返す。どくどくと聞こえる鼓動はやっぱりどちらのものかわからなかったけれど、もうそんなことは気にならなくなっていた。

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