ネームレス


コーヒー。わたしにとっては特別な一杯がある。今日はそれに遭遇する日。スーツ姿でバッグを抱え、前方に見えるその長身を目に留めると、自然に足が早く動いた。

「京楽さん。お待たせしてしまいすみません」
「お疲れ様です。ボクも今来たところだよ」

そう言って微笑むわたしよりずっと年上の彼は取引先の京楽さん。今どきはチャットでの打ち合わせやリモート会議が増えてるけど、彼との打ち合わせはいつも対面で、いつも同じとある喫茶店で行われる。

「リモートとかオンラインとか、ボク苦手なんだよね。覚えなきゃあとは思うんだけど」

はじめの頃からそう言っては苦笑いを見せていた。
でも、わたしにとっては好都合だ。外出する手間があったとしても、彼とこうしてふたりきりで会えるんだから。わたしは京楽さんに淡い恋心を抱いていた。たとえ彼の足元の石ころによる片思いだと分かっていてもこの時間が好きだから、彼にはいつまで経ってもリモート会議ができないまま定年を迎えて欲しいとまで影ながら思っている。

もう幾度と打ち合わせのために使っている喫茶店は、クラシックな雰囲気で大きなガラス窓が明るい素敵なお店。そんなところに惚れた色男とふたりの昼下がり。なんの文句もない状況であるのだけど。ここで出されるコーヒーが、わたしにはいつだって他のものとは違って特別で、妬ましく、恨めしい、とっておきの一杯なのだ。
運ばれてきたそのカップの柄を見て今日もこっそりと肩を落とし、打ち合わせに入っていった。


「ではこちらの資料はお持ち頂いて、その3点が確定しましたらご連絡頂けますか?」
「わかりました。すぐに確認してメールを送るね」

あらかたを話し終え、お互い一仕事終えた安心から既に緩くなったコーヒーに口をつけた。
すると、さて、と京楽さんが口を開いたのでそちらを向く。カップを置いて前屈みにゆっくりと指を組むのを見ていたら、穏やかな垂れ目がわたしを捉えた。

「堅苦しい仕事の話も終わったし、良かったら浮かない顔をしてる理由、教えてくれないかな?」

それまで端々に忍ばせていた敬語を取り去って言う。
浮かない顔だって、気付かれていたのか。申し訳ないな。

「大したことじゃないです」
「なら…いいけど。不安だったよ、ボクが何か失礼をしてしまったのかなって」
「そ、そういう訳ではないです…不快な思いを抱かせてしまって申し訳ありません」
「ああだから、堅苦しいのは無しにしようってば」

京楽さんがひらひらと手を振って取り繕う。
口ではいいけどなんて言ったけど、京楽さんのゆったりと光る視線はまだわたしを見据えていて、やんわりとながら白状しろと訴えているようだった。わたしは短く迷った挙句に観念して、恥ずかしながらも話し始めた。

「…わたしが悪いんです。ただ単に。その…コーヒーカップの、柄が」
「柄…?」

京楽さんは自分のカップとわたしのカップを交互に見つめた。

この喫茶店はコーヒーを頼むと、お客さんの姿を見てその雰囲気に似合うようなカップを選んで提供してくれる。今日の京楽さんはビターなブルーとゴールドのラインが目を引くモダンなカップ。いつも京楽さんの元へは落ち着いた色味でエレガントな、格好いい柄のカップでコーヒーが運ばれてくる。
対してわたしのはというと。今日は白地にクローバーが散らばる可愛らしいものだ。前回はうさぎがぴょんと跳ねていて、その前はいちごがたっぷりと描かれていた。わたしはそういうイメージなのだろう。常にスーツを着て、真面目に仕事の話をしていたとしても。自分の器が知れるようだと思う。わたしだって大人らしい柄のカップでブラックコーヒーを飲みそうだと思われたい。そんな女が自分の理想だった。そんなことで一憂している時点で自分がまだまだ青いというのはよくわかるのだけども。

そんなわたしの稚拙な悩みを掻い摘んで伝えると、京楽さんはうんうんと聞いてくれていた。

「ボクみたいなおじさんと居るから対比で幼く見えちゃってるんじゃない?」
「京楽さんと一緒に居るからこそ大人に見られたいんです」
「そうなんだ?」
「わたしだって、京楽さんのような素敵な男性の隣に居ても違和感のない女になりたいなって、思ったりするんですよ」

愚痴っぽくなってしまってつい本音がこぼれ出た。
あれ、今の、社交辞令とするには少し私情を乗せすぎた。そう思ったときにはもう遅く、目の前の京楽さんは目を丸くしていた。

「そうなって…どうするつもり?」

わたしの発言の意図がわからない、という顔をして、どこか探り探りに聞いてくる。口元を大きな指先で隠して。

「もし、なれたら…」

そう言ってから考えた。
こういうとき、わたしが目指す理想の女はなんて返事をするんだろう。わたしがなりたい女だったら。

「貴方に好きだと、伝えると思います」

心臓が震える。肺も震えてる。声だけは震えないようにかっこつけて言った。言ってやった。わたしがなりたい理想の女は、きっとこうやって余裕を見せて京楽さんの心を揺さぶったりする、はず。なんだけど。

「はは、それはいいねぇ」

京楽さんは少し固まってからそう言って楽しそうに笑った。
その瞬間、わたしが強く持とうとしていた気持ちはガラガラと崩れていった。急に恥ずかしくなってしまったのだ、こんなちんちくりんの女が、何を言っちゃってるんだろうって。京楽さんに笑われて我に帰った。スーツの下の全身の肌がひび割れたみたいな感覚がした。たぶん鳥肌。

「す、すみませんこんな話…無理ですよね、わたしなんて、あはは…」

あーもう恥ずかしい。背伸びした自分が恥ずかしい。
あんなこと言わなきゃよかったのに。わたしはどうせ京楽さんには見合わないクローバーでうさぎでいちごなんだから。そんなの幼稚園児のパンツの柄とかわんないじゃん、あはは。今すぐここに自分が入る用の穴を掘りたい。

そうして笑ってその場を誤魔化そうとしていたら、京楽さんは。

「いやいや、無理なんかじゃないよ。でも、あんまりゆっくりだとボクが先に言っちゃうかもしれないから、気をつけて」
「ははは、何をでしょう」
「君に、好きだってね」

その言葉に、それまでの表情はひゅんとどこかに飛んでいってしまった。震え続けていた内臓たちもぴたりと止まる。
きっとわたしもさっきの京楽さんのように、彼の発言の意図がわからない、という顔をしているんだと思う。京楽さんはそんなわたしにゆっくりととんでもないことを言い始めた。

「本当はね、ボクできるんだよ、リモート会議。よくしてる。君以外とはね」
「え…」
「でも君とは…こうして会いたかったから…ごめんね。ボクの方がよっぽど子どもじみてる」

そんなことを言いながら至極艶っぽく笑う。子どもなんかじゃできやしないその表情とその声音に、またわたしの体が震える。さっきとは別の意味を持って。熱い顔で俯いて拳を握るのはいつものちんちくりんのわたしの所業で、とても自分の理想とはかけ離れているけれど。そんなわたしを見て京楽さんは一言、かわいいと呟いた。



- ナノ -