「おい医者」
「ん?ああ、おはよう」
「首」
「え」


それはもう平穏きわまりない村の外れに野放しに飼い慣らされてる鶏の鳴き声が澄み渡って、山の遥か向こうにまでも届くんじゃないかと錯覚するほど、まったくもって穏やかな朝のことだった。


「え、じゃなくて。付いてる」
「な、何がだ」
「言わせるワケ?」


だが宿屋から俺を追うように現れた蝶左の、朝の挨拶よりも真っ先に、開口一番告げられた一言で、俺の朝は無惨にもその穏やかさを手放すことになる。


「………まさか」


顔を洗うための水を組み置こうと井戸に、それもろくに着込まずに薄手の羽織だけで出たのが間違いだった。そっと首筋に手を伸ばす。だからと言って今さらソレを隠すことが出来るわけでもなく、熱が集中する頬をただただひきつらせるばかりだ。
蝶左がはあ、と小さくため息をついた。その後ろの閉め戸から烏頭目の「朝御飯はー!?」と何ともまあ成人を迎え一年になるにしては幼い声が鼓膜を震わせた。


「そ。欝血痕」


思考回路がフリーズ。
時間にして、たっぷり五秒。頭の中が真っ白になるどころか一瞬意識ごと呼吸までブッ飛んだ。「おい医者、他のヤツに見られる前に隠しといた方がいいワケ。」と俺の肩に手を置いた蝶左の呆れたような声音に現実に引き戻されて、いや、とにかく俺が今しなければならないことは決まっている。


「うっ……空ォォォォォォォォォォォォォ!!!」


馬鹿か!馬鹿なのかあいつは!そうだ馬鹿だった畜生!!
控えめに蝶左が落ち着けとか何とか言うのが聞こえたが、それこそ無理な話だ。来た道をバッと振り返って、まあそこに奴がいるわけでもないがとにかく一喝してやりたい気持ちも抑えられず、朝っぱらから迷惑な話だが雄叫びをあげてしまう。これも全て、奴のせいだ。全て。


「あの馬鹿……許さねえ……!!」
「誰が馬鹿やっちゅーねん」
「どわあっ!?」


いつの間に忍び寄っていたのか、蝶左の後ろ、薬馬にとっては死角であるその影から不意に空が顔を出す。すでに通常時と同じ衣を纏い髪も上にあげたその状態で、けらけらと笑うこいつを一発殴ってやりたい。そんなこと出来るわけないんだが、それくらい怒り心頭だってことを理解してほしい。
わなわなと震える肩を寒さからと勘違いしたのかそうでないのかは定かじゃないが、気を利かせた蝶左が自分の着物を俺にかけてくれた。一肌の衣は朝の冷たい空気に晒されていた肌に心地よい。一瞬呆けて蝶左の顔をまじまじと見上げてたのだが、照れ隠しか頭を垂らして影を深める蝶左に小さく微笑を溢す。(わかりづらい奴だな。)ありがとう、と礼を言う前に空に顔面に蹴りを入れられてそれどころじゃなくなったんだが。


「おうおう蝶左、そんなんこの阿呆にくれてやる必要ないで。馬鹿は風邪ひかんしのぉ」

「なんという言いぐさ!っていうか空、テメエが――」

「ワシがなんや。言うとくけどなぁ、ちゃーんと許可はとったんやで。そもそも昨日先にワシの寝床に潜り込んできたんは……」

「うわあぁああぁああああぁああああぁキコエナイナ!!」

「うっさいねんクズが!」

「おい医者、女達が起きるぜ」


同時のツッコミを受けてハッと顔を上げる。まだ閨たちが起きてくる気配はしなかったが、こんな早朝から騒ぐなんて俺らしくない。だが何事もなかったように振る舞うには衝撃が強すぎた。


「う…っ空の馬鹿野郎!お前なんか……もう知らねえからなっ!!」


赤くなるばかりの頬と、別の意味で赤いであろう首元を蝶左にかけられた衣で隠すように上から被った。依然としてにやにやと空が笑っているのがわかったから、これ以上何を言ってもきっとからかわれるだろうと区切りをつけ、俺はそそくさとその場を退散することにした。
逃げるとはブザマやなー、なんて後ろから聞こえたがもうかまってられるか。ああ、今日は嫌な一日になりそうだ。










「…………おい」

「何」

「あいつに惚れとんのか、お前」

「さあ、どうだろうな」

「……ま、誰を想おうが個人の自由やしのぉ。とやかく言うつもりはあらへん」

「よく言うワケ。牽制するためにわざわざ出てきたんだろ?糸目」

「さあ、どうやろうな?」

「食えねーヤツ」

「お互い様や」

「あんまり医者虐めてると俺が奪うぜ」

「ハッハッハー。宣戦布告とはワシも舐められたもんやな。誰が渡すかいド阿呆が」


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