押し倒されて、何が何だかわからねえままに迫ってきやがった空のくちづけを甘受して、けれどその向こうに獣さながらの獰猛な瞳がぎらついているのを察した俺はこのまま流されてはいけないと直感した。何かある。俺の知ってる天邪狐空という男は世話のかかる餓鬼みてえな一面を覗かせつつも、その実現実にシビアで他人の心にも自分の心にも人一倍敏感だ。あざとくもその裏には何かが潜んでいた。空は人を魅了する術を心得ていて、そのくせお得意の嘘で靄を振り撒き自分は颯爽と風に交じるのだ。うやむやにはぐらかされた感情は拾われることなく霧散する。それは俺も例外ではなかった。空は残酷だ。いっそ残酷なだけならばまだ救われたかもしれない。俺は知っている。―――どこまで?



「おい、空!お前……っ」

「やかましいねん、薬馬風情が」

「何だと――」

「お前は誰のものや。答えてみい、その口で」



空の思考が読めない。もとから読めたことなんて一度もないが、しかし今俺を押さえ込んだ状態で奴は俺を試しているのかもしれないとふと考えた。暗鬱を孕む空の口の端からくつくつと笑いが溢れ、重力に従うかのようにすとんと落ちるばかりのそれを俺が呑み込む。気道を通って空気の塊が体内に分散する。この体積のほんの一分にでも空の心が隠されているのなら、俺は甘んじて血液の循環を阻む二酸化炭素だけをも取り込んでしまいたいと思った。相当末期だ。どうやらこれは治せそうにない。(お互い様だ。)

――うつほ、
――お前はいったい、
――何を
――なにを、思って、
――拒絶しないと、
――拒絶、
――拒絶、拒絶
――拒否
――拒否して、いいのか
――拒否、なんて

――いいわけ、あるか、
――空、うつほ、
――お前は俺を、


――おれは、おまえを、



「空っ!!!」



全身全霊、ありったけの力を振り絞って空を引き剥がした。濡れた唇が急速にその熱を失い、速まるばかりだった心臓の鼓動も静かに穏やかなものとなっていく。空の目はこうなると知っていたかのように細められ、予期していた反応を楽しんでいるようで、そのくせ哀しげだった。そんな顔をさせたかったんじゃない。俺の心は空ほど複雑な構造はしていない。応えるのは簡単だ。けれど奴が望む言葉を吐くだけなら、俺には奴を想う資格もないただの人形も同じだった。
(なあ、そうだろう、空。お前が愛した俺は、それほど愚かで無様じゃなかったはずだぜ。)



「……お前は餓鬼だな、それもどうしようもねえくらい幼い」

「手の届く距離にあるものから掴んで捨てていく主義なだけやで」

「それが餓鬼だってんだ」

「何と言われようとかまわん。のぉ薬馬、ワシはワシが怖いで」

「冗談も休み休み言えよ」

「ほなこんなのはどうや。お前が彼奴に笑うてるの見るだけで腸煮えくり返るわ。……簡単に触れさすなや」

「空」

「……なんて嘘や。ワシは一人に固執するなんて御免やで。――それもお前なんかに」

「空」



手を伸ばす。俺が今しがた突き放した男に。空は拒まない。するりと撫でた頬は驚くほどに冷たかった。



「なら、もっと強く奪ってくれよ。俺の気が変わる前に」



沈黙の中降り募る言の葉は誰の心にも留まらず、誰のことも縛らない。俺もお前も自由の中に在る。見上げた空の背には万華鏡を覗いたような月光が燦々と降り注ぐばかりだ。柔らかな日差しとはまた違う、それでいて何て暖かな光だろう。奴の目に映る俺は、この目映い朧の中でどんな顔をしているのか。知る由はないが、頬を流れた黒髪を手に取って悪戯に遊ぶ空を見ていたら、容易に想像はついた。



「気に食わん」

「だろうな」

「お前なんぞにわかるかいな、ド阿呆」

「わかるさ。空、お前もやっぱり人の子だな。お前が嫉妬なんてするとは思わなかったぜ」

「黙らんとその口塞ぐで」

「塞げばいいだろ。なあ空、お前――」



俺のこと、そんなに好いてくれてたんだな。
言葉になる前に泡と化して溶けた音素を頭の中で繰り返す。きっと空は気づいてる。言わせまいとくちづけた、この布一枚も通らぬほどの空気の壁にお前はどれほど臆していたんだろう。空の言う彼奴と言うのが蝶左なのか弐猫なのか、はたまた閨か九十九か。自分でも色事には疎いと自覚はしているが、それで平然は私欲を表に出さないこの男の心を掻き立てていたならば、いっそこの身も心ごと奴にくれてやるのもいいかもしれないな、とらしくもなく思った。



そして、ひどく優しい、




キスを、



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