俺たちはその日初めて神を裏切る意味を知った。そもそも、神が本当に存在するのかはこの際別として、しかし生まれる前から理として世を縛る掟、道徳、人の良識その他諸々を退け、俺と空は向き合う決断を下してしまった。一線を越えるとは即ち逃避を指す。曖昧な定義付けで確保された生温い関係を蹴散らし、空は俺の手を引いて軽々と、それはもう賞賛をいとわない程に優雅に跳んだ。なんて寂しい世界。こんな男が俺一人のために『世』と言うだだっ広い枠から望んで外れようとしているのだから。逃避行は奴には似合わない。振り払うのは簡単だ。俺の手を取った空を突き飛ばして、殴って、傷つければいい。聡い奴はすぐに気づいて、何もかもを嘘に塗り替えてくれるだろう。それをしないのは、俺が正直に生きることを美徳としているから、だけではない。単なる恐怖心ゆえだ。偽善者だといつだったか誰かに言われたが、寧ろ俺はただの臆病者かもしれなかった。


「空」

「何や」

「後悔、しないか?」


口を突いて出る言葉はどれも俺の心と一部たりとも重ならないものばかりだ。案の定俺を見下ろしていた空の眉間に皺が寄る。バカなことを言った。言い訳の一つでもしようかと口を開いたが、自分が口下手である自覚と二の舞になりそうな予感が、慌てて俺の口を閉じさせたのだった。


「お前はワシが嫌いか」

「……んなわけあるか」

「そうや。薬馬、お前はワシを好いとる。見とったらわかるわそんなん」

「自意識過剰だぞ」

「ホンマに?」

「……」

「ワシは嫌いやで。はっきりせえへん駄馬はのぉ」

「……誰が、」


駄馬だ、と言おうとして、口を塞がれた。生温い唇は確固とした生を象徴するかのように、じわじわと俺たちを蝕む。息が、出来ない。触れているだけの熱が、今はこんなにも苦しい。

うつほ。言葉にならない呼気だけが湿りを帯びて宙へと消える。せめてお前がもっと非道い男であったなら、俺は揺れるばかりの心なんて置き去りにして奴に全てを差し出せた。それが出来ないのは、空が俺を全身でいとおしんでいるのが、わかるから。舌先で俺の唇を舐め、けれどそれ以上追求しない空の表情は俺には到底読めない。俺を咎める指先は、ただ俺の背を抱くだけだ。限りなく優しさを孕んだ指先だと思った。


「ぅ、けほっ」

「薬馬」

「っ……」

「もういっぺん言うで。嫌なら突き飛ばしぃ」

「うつ、」

「ワシはお前を抱きたい」


偽り人の言うことをそのまま鵜呑みにしていいのか疑問だが、長い付き合いだ。これが嘘か真か、察する以前の問題で奴は俺をとっくに射抜いている。俺は空に殺された。それを正常と認識しているこんな沸いた脳で考えることなんて、今さらありはしないだろう。
再び唇が重なる。どうやらもう言葉を発することも億劫らしい。奇遇なことに俺もだった。俺たちは神を裏切る。道徳も全て擲って理と称された垣根を越える。逃避だろうとかまわない。他でもない、奴がそれで良いと言うのだから俺が腹を括らないでどうするんだ。
空の舌先が唇を割った。甘やかに流れ込むそれを、人は愛と定義付けたに違いなかった。

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