雲が疎らに散った空をふと仰ぎつつ、天邪狐は手にした絵筆を器用に指先で回転させた。澄んだ空気はこれほどに透明で薄っぺらな酸素の膜を張って天井を包んでいるというのに、眠気を孕んだまま冴えない脳には肌寒さばかりが染みる。
日はとっくに昇っているけれど、緩やかな時間の流れに逆らうのも馬鹿らしい。普遍の穏和を妄りに乱すのは、この一時を楽しんでいるぽちのこともあり、天邪狐にも好ましくないことではあった。



「何をかきかきしましょー」

「お題とかないん?」

「おま!」

「ワシ見たことあらへんがな」

「ぺらぺらチーノはっちポリーンはどうですかー?」

「ぶはははっ!それ何や、初耳やぞ!」



ぽちの指すソレが生き物なのか無機物なのか天邪狐には判別が出来ない。二人で日の当たる木造の廊下で筆を取ったはいいが、何を描こうかまずその題材が見つからないのだ。適当に目につくもの、例えば木々や家屋などを描いても良かったのだが、二人にとっては(厳密に言うならば一人と一匹にとっては)描いた絵が上手いか下手かなどは二の次である。用は描いていておもしろいか。これに尽きるのだが、どうも二人が共通して題材に出来そうなものは少ないらしい。
笑い疲れて途切れた会話の沈黙が重みを増して足元に沈殿する。居心地の悪いものではないが、このままダラダラとするのも勿体無い。ふむ、と天邪狐はその場に寝転がって絵筆を上へ掲げた。彼を真似するようにぽちもその隣に転がる。二人で暫しそうやって筆を見つめ、何が怒るわけでもないのに呼吸ばかりを繰り返していた。



「……何してるんだ?」



ん、と天邪狐たちの顔に影が落ちる。彼らを覗き込んでいる薬馬の頭が日を遮ったためだった。筆を天に向けながらぴくりともしない二人を不審に思うのも頷ける。ぽちは薬馬を見るや否や「おかーさまー」と起き上がり、彼の足下へとたとたと近づいていった。ぽちの興味は絵筆から薬馬へと移ったらしい。
そんなぽちを薬馬は慣れた流れで素早く抱え上げ、未だ天を仰いだままの天邪狐の脇に膝を折って座った。これも一種の慣れなのか、赤子を抱く母のようにぽちをしっかりその腕に落ち着かせて、当の薬馬はじっと天邪狐を見つめる。



「……つまらなくないか?それ」

「少なくとも楽しくないことは確かや。薬馬ー何かお題ないんかー」

「お題?」

「ぽちもワシも知ってるもんでおもろいもんがええ。つまらんかったら毒飲ますで」

「苦しいのはーいやですーイヤイヤー」

「ぽちには飲ませんから安心しいや。この駄馬の口にだけ的確に突っ込んだるわ」

「駄馬じゃねえ!あと毒なんて冗談でも盛るんじゃねえぞ!」

「冗談やなくて本気や」

「空!」

「おかーさまのお怒りですー」

「小姑はホンマにピーピー口うるさいのぉ」

「あのなぁお前ら……!」



しかし経験上、薬馬が天邪狐に口で勝てないなどと言うことは本人も承知している。早々に諦め、薬馬は小さくため息をついて勝負を降りた。これ以上小言を言ってもまたからかわれるだけだ、というのも予測済みなのだ。
おかーさまの腕の中ー、とはしゃぐぽちの頭を二、三度撫でつつ、「小姑のくせにつまらんなんて生きてる意味ないわ。」などとけらけら笑いながら毒を吐く天邪狐に苦笑を漏らす薬馬。彼の艶々しい黒髪を日差しが照らして、白い絹糸のような肌が不意に明るみに出た。眩しいのか細めた視線は、しかし天邪狐に向けたままで。



「……なあ空、さっきお題がどうって言ってたが……俺はどうだ?」

「はぁ?」

「俺のこと書いてくれよ、二人とも」



そう、優しく微笑んで見せたのだった。
その瞬間絵筆を掲げていた腕が急に重くなった気がして、天邪狐は意思とは関係なくいつの間にか起き上がっていた。筆は手に納まってはいるものの、伺うように覗き見た薬馬が依然として自分を真っ直ぐ見つめているのが落ち着かず、とりあえずその筆を薬馬に向かって投げつけたのだった。



「いてーな!何すんだ!」

「うっさいわボケ、黙っとれ」

「空さーん、ケンカはダメですーあいたー」

「喧嘩ちゃうで、ぽち。筆はいらんから投げただけや」

「いらないんですかー?」

「おい!それは俺のことなんか描きたくねえってことか!どっちにしろ物は投げんじゃねえ、誰か通りすがりのやつに当たって怪我させたらどーするんだ馬鹿!」

「お前はホンマに……うっさいのー」



ひょい、と薬馬の腕から離れたぽちが再度天邪狐の隣へと移動し、子供用の筆を取った。おかーさまー、と愛嬌を振り撒きながら、天邪狐があらかじめ用意していた青の染料に筆先を付け、思い思いに筆を走らせ始める。
それを微笑ましげに眺めた後に、天邪狐は唐突にその染料の中に掌を突っ込んだ。びちゃ、と跳ねた青が廊下を汚し、彼の頬に付着する。ぽちの作画を見ていた薬馬は天邪狐の突然の奇怪な行動に目を暫し瞬かせた。

その地球のように丸く碧い瞳を見つめて、天邪狐はにやりと口角を上げた。曇りのない真っ青な目の、その奥に静かに燃ゆる炎の息吹を天邪狐は確かに感じている。確信だ。ゆらゆらと蜃気楼のようにも見てとれる、その波は海そのものに違いない。穏やかな、とある日の昼下がりのことである。



「描いたるわ、お前のこと」



絵筆も、他の余計な色も、言ってしまえば紙なんかもいらない。ただ彼らのいる場所に、一面の碧を広げたら完成だ。



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