この街の人たちが許せないと感じたのは確かな感情で、まだここにある。人間はいつだって、自分の見たいものだけを見て信じている。あなたが当たり前に来ると信じている明日を守ってくれているのが誰か、考えたことがおありですか? なんて、なんてね。みんなそんなこと考えてねえよ。

 書庫でぱらぱらと本を捲りながらこの世界のことを思う。悪魔屋敷だなんて言われているこの屋敷は随分と息がしやすくて助かる。空気はもちろん、こう、雰囲気というか、落ち着く場所、という感じがして。そう感じるのはやっぱり彼らのおかげなんだろうな。
 執事としての仕事をこなしている彼らと天使と戦っている彼ら。どちらも同じだということを知っている。命を懸けて戦っている彼らを街の人たちや貴族たちがどう思っているのか、ということは嫌というほど思い知った。自分たちの足元がぐらついている原因を、自分たちの恐怖の対象を取り除いてくれる存在はお前らと同じ人間なんだよ。それを、きっと考えずに彼らを忌み嫌っているのだ。なんていうのは勝手な想像だけど。そんな人間たちがいる世界を、どうして。
「主様?」
 柔らかい声音で呼ばれてそっちを見上げる。ベリアンは何か窺うような顔で首を傾げていた。
「何かわからないことでもありましたか?」
「え?」
「いえ、先ほどから眉間に皺を寄せていらしたので」
「そうだった?」
「はい」
 完全に無意識だった。眉間を指で伸ばせばベリアンが小さく笑った気配がする。
「わからないことがあればなんでも仰って下さいね」
「うん、ありがとう」
 優しい、人だ。主が相手だから、というわけでもないことは知っている。彼は相手が誰であれ優しさをもって接することが多い気がする。相手に悪意があったとしても、大事にならないように立ち振る舞うことのできる人。こんな人のことを、街の人たちや貴族たちは。
「ベリアン」
「はい」
 ぱ、と浮かんだ言葉を口にしたら、困らせることはわかっていた。だから別のことを口にする。
「明日はもうちょっと長くこっちにいられるよ」
「本当ですか?」
 花がほころぶような、っていう表現、男にも使えるんだな、と思うような笑顔を浮かべて確認をとってくる。それに対して「そうだよ」と頷けばやっぱり嬉しそうな、どこか安心したような顔をした。
「そうですか、それは何よりです」
「なんか予定でもあった?」
「いえ、そうではなく、」
 ふ、と小さく息を吐いて言葉を区切る。
「主様はいつも頑張っていらっしゃるので、少しでもここで休んでほしいと思っているんです」
 いつも聞く言葉。頑張っているから休んでほしい。頑張りすぎないでほしい。それ、全部ブーメランで返したいんだよなあ。
「ありがと」
 笑ってお礼を言えば彼も笑ってくれる。そういうことの積み重ねを大事にしていたい。彼は、どうしようもなく人間なのだから。
 彼らを忌み嫌う人間たちがいることを知っている。この世界には、どちらかといえばそういう人間たちの方が多いのだろうなということは察していた。
 だから、そういう人間たちがいるこの世界を守る価値はないと、思ってしまった。
 いつだって彼らの幸せを願っている。彼らが幸せになれない世界なら守る意味も価値もない。そう、言いきれてしまう、から、きっと俺はこの屋敷の主人には向いてなかったのだろう。自分たちを忌み嫌っている人間たちも含めて、彼らは天使から守っている。それが仕事だから。運命だから。そういうところ、どうしようもなくて嫌になる。俺はどうしたって自分のことを嫌っている人間に対して優しくできない。結局のところ、ここに行き着いてしまって己の器の小ささを思い知る。ベリアンや他のみんなに優しくしてもらえるような、できた人間じゃねえんだよ。だって俺は、君たちが幸せになるためなら何を踏み台にしてもいいと思ってるんだよ。みんなが幸せになれるなら、何をしたっていい。俺は君たちのために命を捨てることができるよ。君たちが許さないだろうけど。

 さっき浮かんだ言葉が頭の片隅に浮いては消える。

 ──君たちは、世界を恨んでないの。

 俺は、ずっとずっと恨んでるし、許せないままだった。