そう、いえば。名乗った記憶はあれど、名乗られた記憶がない。それに気づいたのはわりと最近だった。恭遠が呼んでいることはあるし、聞いたこともある、はずだ。何故かその名前が耳に入ってこなかった。入ってきたとしても、その音を名前と認識できなかった。
 その音はするりと耳から抜け落ちて雑音に変わっていく。そのことが苦にならなかったことが驚きといえば驚きだが、まあ、腑に落ちることは落ちる。彼のことを名前以外で呼ぶことが多すぎるのだ。
 君、おまえ、メディック、マスター。そのどれかを彼に対して口にすれば、絶対に振り返ってくれる。正直どうかと思う。名前は、大事なものじゃないのか。

「おまえには言われたくないな」
「なんで」
「名前の由来が不明なやつに言われても説得力はないじゃん」

 それは仕方ないことだろ。この名がいつ、誰が言い出したのか、俺ですら覚えていない。気づいたら俺はブラウン·ベスとして、英国の銃として、人に使われていた。
 思わず、むすりと黙り込んでしまったことを彼に笑われる。雑に広げた書類を横にやりつつ、彼は俺のことを見た。
「ベス」
「なんだ」
「それでいいんだって」
 名前を呼んで、返事をして。それでいい。名前がただの二人称になってしまっているだけ。不思議なことはない。
 ──本当に?
 彼は本当に、そう思っているのだろうか。俺には何もわからない。人の身を得てから、そう長くはない。目の前にいるこいつの方が人間としては長くやっている。人なんて、あっという間に死んでしまうのに。
「恭遠に聞いてくるって言ったらどうするんだ」
「どうもしないけど」
 聞きにいく気がないということを見抜かれている気がする。恭遠が口にする彼の名前を認識できない。だから、面と向かって聞いたとしても名前はわからないし、聞く気もない。
「そもそも、俺とおまえの名前の違いを同じ土俵で扱うのがよくないだろ」
「へえ? 続けて」
「俺は名前の由来より何より、此処でおまえを守ることができればそれでいい。でもおまえは」
「えっなにそれかっこいい」
「話を遮るな」
「ごめん」
 きらりと光った目に一瞬だけ肩を揺らしたのは気付かれていないだろうか。素直に謝った彼は話の続きを促した。
「……でもおまえは、おまえの名前は、生まれたときからそこで一緒にいるんだろう。それを聞き取れないのは、おまえの存在を認識できていないような気がする」
 そこにいることは分かっている。俺と机を挟んで向こう側に座っている彼。マスター。存在というものは、名前も含めて存在しているといえるのではないか。
 俺の言葉を聞いた彼は、ふふ、と小さく笑いだした。
「真面目だな、ベスくん」
「茶化すな」
「茶化してなんかないよ、真面目だなっていう感想を伝えただけ。そんなこと気にしなくたっていいのに」
 彼の指先が書類をなぞる。いつも俺たちのことを治してくれる指。戦場に行けば血や土で汚れてしまうそれは、今日は汚れていなかった。そのことに酷く安心する俺を、知らないままでいてほしい。
「俺はマスターで、メディックで、それだけの価値しかない。それ以外のことなんて何も出来ない、ただの人間なんだよ」
 マスター、と言いかけて口を噤んだ。今ここで彼をマスターとは呼びたくなかった。マスターでいてほしい、と言ったのは確かに俺の方なのに。あの言葉は、彼にとってどれほどの重さだったのだろう。
 唇を噛み締めてその痛みに胸のあたりが痛む。生きている。俺も、彼も。俺の方が長く生きた。それでも彼は人間として、その身体で、俺よりも長い時間を生きている。俺の知らないおまえは、どんな人生を送ったのだろうか。
「たとえ、そうだとしても。おまえのことは俺が守ってやる」
 ただの人間だからこそ、俺はおまえを守りたい。いつか死んでしまうことは分かっている。それでも、それまでは俺が身を賭してでも、守りたい。
「騎士道?」
「……前も言っただろ、俺はおまえだから守るんだ」
「はは、最高」
 暗くなった瞳を瞬き一つでなかったことにした。器用なひと。気づかせたくはなかっただろうな、優しく脆い人間。自分の感情を押し殺せることは、決して生きるのが器用というわけではない。
「これからも、よろしくな、騎士様」
「ああ、もちろんだ」
 そのうち、彼が泣きたいだけ泣ける日がくればいいと思う。たとえそんな日がきたとしても、彼が泣かないだろうなとも思う。少なくとも俺や他の貴銃士、レジスタンスの前では泣かない。きっと一人で泣くのだろう。そんな姿が簡単に想像できてしまった。慰める役は、きっと誰にも務まらない。