それを聞いたのは偶然だった。多分、言った本人は改造だのなんだのと諸々企んでいたのだろう。
 私が彼をそう呼んだことに他意はない。ただ、訂正してくれると信じていた。

「エンフィールドお兄ちゃん」

 二人きりの茶会。周りには誰もいなかった。私の声を聞いたのは目の前にいる彼だけ。彼は戸惑ったように、けれども冷静に言葉を選んだ。
「ええ、と。僕はマスターの兄ではありませんよ」
「そうだね」
「どうかしたんですか?」
 別にどう、というわけはない。彼の問いに首を振る。エンフィールドはそうですか? と少し疑問を持ちながらも流してくれた。
 そう答えることを、信じていた。その言葉に安心感を抱いたことを伝える術を私は持っていなかった。

 何回かそんなことをしてしまった。お兄ちゃん、と呼べば絶対に訂正をしてから返事をくれる。恐らく向こうも慣れてしまったのだろう。戸惑うことはなくなってきた。
 周りに誰かいる状態で彼をお兄ちゃんとは呼ばなかった。誰かに聞かれて、どうしてそう呼ぶのかと聞かれたところで答えられない。絶対に訂正をする。そのことに安心していたのは事実だ。エンフィールドが誰の兄で誰の後輩か。私が気にするようなことではないとは思う。ただ、否定の言葉が欲しくて。そう、否定をして、ほしかった。
 夜のうちに雨が降り、朝には止んでいた。濡れた空気の中、彼はそこにいた。向こうも私に気づいたらしく、あ、と声をかける。
「おはようございます、マスター」
「おはよう、お兄ちゃん」
「だから僕はマスターの兄ではありません」
「うん」
 毎回毎回、丁寧に返してくれる。真面目なひとだ。最近ちょっとだけ呆れが混じりつつあることに気づいた。それでも訂正してから話をしてくれるのだから、実は彼はかなり甘いのではないだろうか。本気で嫌なら言ってくれればいいのに。嫌と言えない性格ではないはずだ。その辺りはわかっている。
「マスターも朝食ですか?」
「そう、今日はなんだろうね」
「なんでしょうね」
 美味しければなんでもいいなあ。そもそも不味いものがでないでしょう、ここ。不味いものというよりは物資不足の時はあるよ。それはまあ、そうですね。

 否定をしない。いつだって彼は事実を述べるだけだ。そのことがどれだけ私を安心させているか、知らないままでいてほしい。知らないままで、私の呼びかけに対して否定をしてほしい。このことを知られたら、きっと嫌われるだろうなあ。私はずるい人間なんだ、ごめんね。
 きっと彼はその身をもって、人間がずるい存在だということを知っているだろう。それでもどうか、と願ってしまう。どうか、ここに居る間は私の感情を知らないままでいてほしい。そのほうがきっと、たとえまやかしだとしても、幸せだよ。