那由他悦子様より相互記念 | ナノ




キスもしない距離




 今日の業務も粗方終了し、一息をつく意味でソファに座り込む。時計を見ると、珍しく日付を跨いでいなかった。それどころかまだまだ日付変更線に追いつかれるまでに少しだけ時間がある。店自体が早く終わったからだろうか。今から店を出ても、終電に間に合う時間だ。窓の無いここからじゃわからないが、外は雨だという。雨の日は早く帰るに越したことは無い。

 柄にも無く嬉しくなる。けれどもまぁ別に早く帰ってもやることが無いことにも同時に気づいてしまった。寂しいといったら寂しいけれど、こんな仕事をしてる以上は気にしてもいられない。
 …そうだ、店長。こんな日は店長も早いんじゃないだろうか。良ければ一緒に帰ったり―…なんて、そんな事を考えながら店長の姿を探す。見当たらない。二、三度大きく周りを見渡すと、意表を返して後ろから声が聞こえた。

「―帰るのか村上」
「…あ、店長」

 さっきまでシャワーでも浴びていたのか、かすかに頬を上気させた店長が髪の水気を払いながら俺の横に座りかける。甘いような爽やかなような、そんな香料の匂いがした。

「あ、いや、粗方仕事も終わったので帰ろうかと…雨も降ってるらしいですし。…店長は?」
「俺は…まだ残る」
「あれ、じゃあ俺も一緒に…」

俺が焦ってそう言うのを見透かしていたかのように、店長が苦笑する。髪にわずかに残った水気が揺れて店長の顔にぱたりとかかった。

「いや、良い。今日…黒崎様が迎えに来る予定だから」

 …しまった。そんな心の中の声も多分見透かされているだろう。…だから多分今日はいつもより早く終わって、それで。…急に今まではしゃいでいた自分が恥ずかしくなる。慌てて目をそらした自分を宥める様にいさめる様に、店長がからからと揶揄するように、笑う。
 その笑い声を聞いて同じ様に笑って安心できない自分はつくづく出来ない部下だと思うと気分が沈んだ。仕方ない。物語がいくら気に食わなくても、スクリーンの向こうで演じられるものに手を出す力は無いのだ。

「何なら待ってるか?ここに帰るのは朝方だろうけどな」

 そんな風に茶化して笑わないでくださいよ、とも言えずに鞄に書類やらをかき集めて放り込む。そうだ、代わりに傷ついていいはずが無い。そんな権利は自分には無い。

「…お疲れ様でした」
「ん、…お疲れ」
 あーあ、今日は帰って早く寝よう。間違っても妄想という名前の思考の入る余地を作らないように。そう考えると、何だか泣きそうになった。俺が泣いてどうするんだ馬鹿野郎。
 名残惜しく店長の横にいようとする身体にふんぎりをつける為にわざと勢い良く立ち上がる。そのまま一歩踏み出す。
が、…踏み出せ…ない。もう一度ゆっくり一歩を踏み出す。進まない身体に、冷や汗。
 …嘘だろ、無意識下でもストーカー気質が働いてるなんて我ながら気持ち悪い。恐る恐る訝しげな顔をしているだろう店長をそろりと見る。残念、俺の予想は見事に外れ、店長は俯いていた。その手はしっかり俺の服の端を掴んでいて。細いけど、骨ばった手が。俺を引き止めている。

「…店長?」
「…………………」
「あの、これ」
「…帰るな」
「…あの」
「もう少しだけここにいろ」

 あの、それって。
俯いてる所為で店長の表情はわからない。俺は言われるがままにソファに腰掛ける。また香る、シャンプーの香り。その濡れた髪が、ゆっくり自分の方へ傾いてきて、膝の上に落ち着いた。

「て、店長…っ!?」
「何だ…どうせ外雨なんだから濡れてもいいだろ」

そうじゃ、なくて。
 俯いていた顔が俺を見据える。長い睫毛と大きな意志の強そうな瞳が膝の上からこちらを見ていた。…店長に嵌る奴らはこの目が欲しいのかもしれない。光を戴いたこの目を、手中に収めたくて。
 まじまじと店長の目を見ていると、いきなり「見んな」と言いながら思いっきり顎を押し上げられた。ゴキリという嫌な音と「いだっ!!」という俺の声で、店長がからからと楽しそうにようやく笑う。

「何か、言えよ」

それはもう枕話を要求する幼子みたいな柔らかな切実さでもって。

 その雰囲気からこの人が望んでいるのは額面通りの言葉の羅列じゃないということを察知した俺は何か当たり障りの無い与太話を探す。天気の事。今日から始まるドラマの事。最近あった事。近所にカフェがオープンした事。もうすぐ夏だという事。梅雨が明けた事。どれも思考の中から飛散してしまって、見つからない。まいった。
 悩んでいる俺を見て店長が、無茶振りだったかと眉を下げながら笑うのが伝わってきそうで、咄嗟に飛散した言葉を口から吐き出す。

「お、俺…妹、がいるんですが」
「…そうなのか。……………お前の妹って…」
「いや!俺には似てなかったですよ!可愛くて!…それで、妹も…小さい頃俺の膝にこうやって寝そべってたなー…って、そ、それだけです、けど!」

 話してからこれは無かったか、と後悔する。ただでさえ女顔を気にしている人によもや妹扱いとは。さぞかし店長も複雑な気持ちだろう。

「妹と同等か…」
「いや、あのそんなつもりじゃ」

慌てて弁解する俺を気にかけるでもなく、店長が目を閉じて呟く。

「…お前の妹には悪いが今だけは俺の場所だな」
「…っうえあ?!」

 いきなりの言葉に「こんな場所で良かったら幾らでも!」そんな事を言おうとしたのに、舌がもつれて上手く言えなくなる。それを見てまた店長が笑う。「馬鹿」なんて、それすら心地よく聞こえる。

 ソファからはみ出す細い足が白い。
その足は本当は人に言えない棘が刺さってるんでしょう。汚い痣で塗れてるんでしょう。立っているだけで辛いなら、少しで良いから二足歩行を放棄して欲しい。膝ならいつでも貸せるから。膝しか貸せやしないから。

「…村上」
「なんでしょう」
「ちょっと、こっち」

 シャワーで得た熱がすっかり逃げた指先が首に絡みつく。感覚だけが身体から引き離されてしまったように、どこか遠くで冷たさが伝わる。目の中に店長の顔が広がって、ようやく店長が俺をそのまま引き寄せたのに気付いた。
 吐息がかかる程近くに店長の顔がある。吐き出された吐息が熱い。いつもはどこか、冷たいのに。

「…店長」

 ふっとして、店長の手をそっと握ってみる。ん、と小さく声を漏らして安心したように店長がまた目を閉じた。
 唇が、近い。キス出来そうな距離、が比喩じゃなく存在していて。

(キス、出来る距離)

 この距離に身を委ねようとした瞬間、電子音がした。
 その音に反応して店長がバッと起き上がる。(その時店長の石頭で勢いよく俺も跳ね飛ばされた)そしてその電子音の発生源であるもの――携帯電話を取り出して、堅く、でも媚びた声で 応答する。それを聞いて、俺は店長の足がまた血塗れになるのを見る。鐘すら鳴っていないのに、魔法が解ける時間を知る。
 二・三個言葉を交わして携帯が閉じられた。

「悪い、もう行かなきゃ」

 こっちを見ずに店長が言う。背広を羽織って、ドアの前に立つ。

「…、って、店長っ…!」

 店長が振り向くのが、まるでスローモーションみたいに見える。届かなそうなその姿を捉えるように、必死で声を搾り出した。

「俺っ…待ってますから!ここで!…朝帰りでもなんでも…!」

 だから、帰って来て良いんですよ。

 息も絶え絶えにそう言うと、俺の必死さを茶化すように店長が笑った。けれど、その細められた目の中に、一欠けの安心が垣間見えて。

「…あー、精々待ってろ」
「の、望む所です…!」

 名前は、よく知らない。

 この関係が愛なのか恋なのか惚れた腫れたのものなのか。それでも貴方が安心できるなら、俺はずっとここにいる。






那由他様より素敵な村一頂いてしまいました!
もうなにがって一条が可愛すぎて!!!こんな主従関係な村一とても萌えてしまいます!
那由他様本当にありがとうございました!


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