前編:陽当たりの良い地獄


 陽当たりの良い地獄で育った、仮面を外さない男。
名前は神道愛之介と初めて会った時、そんな感想を抱いた。
 彼は『愛』をキャッチコピーとし、様々な改革を形にしてきた若手政治家だ。民意に寄り添うというモットーと端正なルックスで、有権者から絶大な人気と支持を誇っている。
 
「こんにちは。僕は神道愛之介と申します。」

 有権者に向ける完璧な笑顔で挨拶され、名前はますます底冷えがするような心地になった。好青年そのものの笑みは、人を絆すための彼の強力な武器のひとつなのだろう。しかし名前には、長年貼りついた仮面のようにしか見えなかったのである。

「愛之介さん、こちらは名字家の名前さん。あなたのお嫁さんになる方よ。」
「初めまして。よろしくお願いします。」

 神道家において愛之介の叔母にあたる女性は、機嫌良く名前を紹介していく。どんなに素晴らしく優れた家柄か、いかに美しい容姿で立派な要職に就いているかを語った。それはすべて冒頭に神道家にふさわしい、という但し書きがついている。名前は褒められているのに、息が急速に詰まっていくような心地になった。家の発展という名目。選民意識の高い、窮屈な価値観で選ばれたことがまざまざと伝わってくるからだ。
 名前が極力笑顔のまま耐えていると、紅茶を優雅に飲んでいた愛之介が頬を緩ませた。

「僕は幸せ者です。こんなに美しく聡明な方と、生涯をともにできるのですから。」

 愛之介はうっとりと、近い将来妻になる名前を情熱的な様子で眺めた。神懸かり的な演技力だと、名前は息を呑んだ。本心を完全に隠匿し、ここまで仮面を被れる人間がいるのかと彼女は絶句した。仮面を被り、有権者の望む顔を演じること。それは優れた政治家の資質に他ならない。

「あらあら、愛之介さんはすっかり名前さんに夢中みたいね。」
「ええ、お恥ずかしながら。一目で心を奪われてしまいました。」

 微笑みが交わされ、雑談が続いていく。名前たちがいるのは、神道家のサンルームと呼ばれる場所である。コンサバトリー(温室)と呼ばれることもあるこの部屋は、日光を多く採り入れるために、開口部を大きくとり、屋根はガラス張りとなっている。
 ここでは誰もが愛想と偽りのままに、会話に花を咲かせていく。まるで陽当たりの良い地獄、監獄のような温室だと名前は眩んだ。

「名前さん。これから、末長くよろしくお願いします。貴女のような素晴らしい伴侶に出会えたことが、僕にとって一番の僥倖です。」
「愛之介さん、こちらこそ。神道家の妻として恥じぬよう、あなたを支えて、いっそう家名を高めていきますね。」

 愛之介は始終仮面を外すことなく、名前へと好意的だった。彼女もまた本心を見せずに、愛之介へ好意を示した。彼らは美しい陽の下で仮面を被ったまま、偽りだらけのファーストコンタクトを果たしたのである。



 最初の出会いから、数日後。名前は早速、婚約者として神道家に住むことになった。
 夫婦になる前に同棲し、お互いをよく知ること。それを推奨してきたのは、愛之介の叔母にあたる女性だった。

「結婚前にお互いを知るのは、とても重要よ。神道家の家風に名前さんが馴染めるのかも、きちんと確認しなくてはいけないわ。」

 要は神道家に真にふさわしい女か、見極めたいという魂胆があるのだろう。家名を汚さず、貞淑で従順な女。社交的で妻の役割を果たし、夫の顔を最大限立てられる女であるかどうかを、テストしているのだ。減点方式の容赦のない値踏みに、彼女は微笑んだ。

「それは最もなお考えですね。一足早く、愛之介さんやお義母様と一緒に暮らせるなんて幸せです。」

 名前は期待されている模範的な回答を告げ、婚約者として完璧に応えた。自由のないストレスに苛まれる生活だったが、彼女は唯一といっていい、ある娯楽のために耐えることができた。
 その娯楽とは、"S"という極秘の危険なレースの鑑賞である。閉鎖された鉱山を舞台にしたこのレースは、スケートボードで速さを競い、妨害も危険行為も何でも許される。プライドを賭けた滑り、華麗なトリックの数々、圧倒的なスリルに名前はすっかり魅せられてしまった。

「……また観に行こうかな。」

 名前は毎週日曜の夜を楽しみにしていた。変装し、こっそり用意した自前のバイクで鉱山に向かう。
 神道家の婚約者としては、ふさわしくない振る舞いだと名前は自覚していたが止められなかった。そして迎えた日曜の夜、彼女は初めて"S"の創設者、愛抱夢のレースを間近で見たのである。

「これが愛抱夢……、」

 彼の滑りは圧倒的な自由に満ちていた。対戦者とダンスのパレハ(ペア)のように手を絡め、ボード上で狂気のように踊るのである。それは名前にスペイン舞踏の情熱的なステップを連想させた。おぞましいのに華麗で、凶悪であるのに情熱的。愛抱夢の滑りに強く魅了され、名前は魂を掴まれてしまったのである。

「すごい……、また彼の滑りが見たい。」

 興奮のままに呟き、悶えた。名前が愛抱夢を拝見したのはたったの二回であったが、その容姿も滑りも鮮烈に脳裏に刻まれた。"S"は極秘のレースであり、鉱山を一度出たら他言無用である。その場でレースの視聴はできるが、録画などは厳禁とされている。だから名前は記憶の限りノートに彼の滑りを書き、毎夜彼のレースを回想していた。心躍る刺激的な、愛抱夢という男に焦がれながら。

『楽しいね、スノー。』

 愛抱夢は、スノーと呼ばれている若いスケートボーダーの少年に執心していた。彼を「僕のイブ」と呼んで愛を告げ、タンゴを踊った。その興奮しきった声は名前の記憶に深く刻まれることになった。
 愛抱夢の声は、愛之介のそれと非常によく似ていた。しかし普段の彼とは真逆の人物像である。名前はそのことにある疑念を抱いた。彼女はそれを確信にすべく、土曜日に彼と朝食をともにした時に誘いをかけた。日曜の夜に夜景が素敵な場所があるから、連れて行ってほしい、と。
 彼はフォークを優雅に操りながら、微笑んだ。

「嬉しいお誘いですが、申し訳ありません。日曜の夜は外せないパーティーがあるんです。」
「そうなんですね。楽しんでいらしてください。」
「埋め合わせはします。僕も、貴女と二人だけで出かけたいですから。」

 微笑みが交わされ、会話が終了する。名前は朝食を口にしながら、確信した。『"S"の創設者、愛抱夢は神道愛之介である』ということを。彼の声質、そして"外せないパーティー"という単語。完璧な好青年の人格に対する、抑圧された人格を開放したような滑り。愛之介と愛抱夢は正反対のようでいながら、鏡合わせのような性質があった。

「愛之介さん、行ってらっしゃいませ。」
「はい。行って参ります。」

 婚約者に見送られ、愛之介は幸せそうに返事をする。名前は皮肉だと、唇を引き締めた。彼は実生活の方がよほど芝居じみてて、仮面を被っていることに。
 そして仮面を被っている愛抱夢の方が遥かに自由で、愛を語り、素顔に近いことに。彼女はこの日、初めて心から婚約者を愛しんだ。本当の彼を知ることができたからだ。



 奇妙な二重生活は続いていった。仮面の婚約者という言葉がふさわしいと、名前は紅茶を飲んでいく。
 神道家は変わらず陽当たりの良い地獄ではあったが、以前のような息苦しさはもうなかった。名前は愛之介、そして彼の一面である愛抱夢を夢想し、彼を想うだけで何でも意欲的になれた。苦手としていたパーティーに社交的に参加し、交流を深めていく。そして愛之介の部屋には絶対に入らないことを徹底した。更には彼の負担を減らすべく、会う機会はなるべく減らしていった。

「……愛之介さんは私を愛してはいないけど、それでいい。私は見返りを求めず、彼を愛そう。彼が心から自由であるために。」

 それは献身的で一方的なエゴだった。名前は愛抱夢として生きる彼のために、まずは煩わしい彼の叔母たちを牽制することにした。いつも監視されているような心地だったが視点を変え、こちらがいつも監視しているのだと彼女は微笑んだ。
 そして愛之介のスケジュールを秘書の菊池経由で把握し、仕事の負担を減らせるよう、密かに努力していった。

「名前様、ご無理をなさらないでください。」

 秘書の菊池は乏しい表情ではあるが、気遣うようにそう告げた。名前は婚約者としても仕事面でも優秀だが、体調を気にせず働きすぎる傾向があった。菊池はともに過ごしたのは短い時間ながらも、それを理解し、進言したのである。

「大丈夫ですよ、菊池さん。お気遣いありがとうございます。」
「……どうして愛之介様のために、そこまで頑張られるのですか。」

 菊池は愛之介が名前を愛しておらず、お飾りの婚約者であることを知っている。だが名前はそれに傷ついたそぶりを見せず、気丈に微笑んだ。

「愛しているからですよ。あの人が心から自由に過ごせるなら、これ以上の幸せはありません。」
「そのために自分を犠牲にしてでも、ですか。」
「そうですよ。この陽当たりの良い地獄から、開放してあげたい。……思い上がりだとは分かっていますけどね。」

 菊池はその言葉を聞き、目を見開いた。名前が嘘偽りなく、誠実に話しているのは明らかだった。秘書たる彼は、愛之介と接する女性を数多く見てきた。しかし、これほど真摯に愛を語り、行動している女性はいなかった、と胸中で感心すらしていた。

「菊池さん、今の話は他言無用でお願いします。私は愛之介さんの負担になることは避けたいんです。この真意も想いも、墓まで持っていきます。」
「……承知いたしました。」

 名前は愛ゆえに、愛之介に自らの想いを明かさないつもりだった。彼のために孤独な茨の道を選び、誰にも真意を知られないまま、一生を終えるつもりなのだ。献身的に愛を捧げ、夫となる男の自由を願う様子はまさに妻になる者の鑑のように菊池には思えた。



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