平和な世界


※夫婦設定


 良妻とは夫を支え、賢く良き妻であることを意味するという。
 名前は神道家へ嫁入り後、愛之介にふさわしい良妻になるべく『良妻の心得』という電子書籍を購入。持ち前の熱意あふれる勤勉さで熟読した名前は、ついに実践することにした。
 手始めに、名前は夫である愛之介の後ろをついていった。まるで大好きな主人を追いかける飼い犬のように。
 名前は愛之介の背中をうっとりと眺めた。ピーコックブルーのスーツに押し込められた逞しく広い背中、その足運びは優雅で洗練されている。旦那さまは後ろ姿も実に素敵だと、彼女は改めて口もとを緩めた。

「名前」
「はい、なんでしょうか」
「僕に何か用があるのか?ずっと後ろをついてきて」

 愛之介が足を止めて振り向いた。夫の疑問に対し、名前は胸を張って答えた。

「特に用はありません。本に『妻は夫の一歩後ろをついていくべし』と書いてあったので、実践しています」
「それは例えであって、実際についていくという意味ではないと思うんだが……」
「でも、いいこともありましたよ。愛之介さんは後ろ姿でもかっこよくて、素敵だと分かりました。これからは、あなたがどこに行こうともついていきます」

 愛之介は心の底から悶えた。淑やかな賛辞と宣言をする妻の様子が、健気で可愛らしかったからだ。今の名前には犬科の尻尾がついていて、嬉しそうに左右に振っているようにしか愛之介には見えなかった。
 撫でて褒めるか、改めて躾けるか。愛之介は迷った挙句に前者を選んだ。家にいる限りはそれでいいと認め、存分に甘やかす。愛する妻にはとことん甘い男である。



 愛之介の好物はフォンダンショコラだ。フランスを発祥とするチョコレートケーキの一種であり、外側が硬質な反面、内側からガナッシュチョコレートが溶け出すようにあふれてくるのが特徴的だ。まさに甘さの贅を極めた一品ともいえる。
 幼い頃から、一流の洗練された料理の数々を口にしてきた愛之介。しかし、このフォンダンショコラに関しては名前が作ったものが『世界で一番美味しい』と感じていた。熟達した最高のパティシエの一品よりも、彼は妻のお手製フォンダンショコラを何より好んだ。

「いつ食べても、名前の作ったフォンダンショコラは最高に美味しいな」

 愛之介が本心からの最大の賛辞を送ると、彼女は照れくさそうに礼を告げた。最愛の名前がいつも自分のためだけに作ってくれていると考えただけで、彼は最高に幸せだと感じていた。舌と胸が幸せに蕩けて溶けていく。

「そんな愛之介さんに朗報です」

 すると名前が自信満々にA4の用紙を差し出した。愛之介は典雅な所作で口もとを拭い、問う。

「これは何だ?」
「シェフと一緒に考えた一週間の献立表ですよ。外食の時以外は、基本的にこの形にしたいと考えています」

 献立表は、愛之介好みのラグジュアリーな雰囲気を放っていた。真紅のハートのイラストには薔薇の花弁を意匠化したデザインが施され、華やかさがある。
 メニューには、愛之介の好物が欲張りセットのように毎日ラインナップされていた。仕事の時よりも真剣に目を通し終えた愛之介は、疑問点を述べていく。

「全食のデザートにフォンダンショコラがあるんだが」
「それはもう、愛之介さんの好物ですから」
「……では火曜日のディナーにある『フォンダンショコラパーティー』とは」

 すると名前はプレゼンのメインディッシュといわんばかりに、熱く語っていった。

「火曜日のディナーは、愛之介さんの好きなデザートだけをお出しすることにしました。世界各地のフォンダンショコラから、下町の人情あふれるフォンダンショコラまで各種取り揃えます。一つだけ中身に唐辛子が入ったロシアンフォンダンショコラもありますよ。まさにフォンダンでショコラなディナーです」

 妻の善意に満ちたフルコースの提供に、愛之介は頭を盛大に抱えた。栄養バランスやカロリーを度外視した狂気のディナーだが、それ以上に圧倒的な嬉しさが勝った。好きな物を存分に食べてもらいたいという熱意が、あふれんばかりに伝わってきたからだ。

「ちなみに、名前の手作りフォンダンショコラは出るのか?」

 一番の好物である、妻のお手製フォンダンショコラは提供されるのか。愛之介が問うと、名前は頷いて微笑んだ。

「もちろんですよ。今日は火曜日なので、楽しみにしていてくださいね」

 今度こそ愛之介は陥落した。嬉しさというものは限界点を超えると身を悶えさせるのではなく、その場に崩れ落ちてしまうものらしい。彼は立ち上がって喜悦のままに情熱的なステップをした後、再び椅子に崩れ落ちた。

「あなた、大丈夫ですか?情緒が愛抱夢みたいになっていますけど」
「大丈夫じゃない。……やはり名前、君は最高だ」

 心配そうな表情の妻が、愛之介にはひたすら天使に見えていた。それこそ美しい純白の翼すら幻視できるほどに。最愛の妻にして、最高のイブが隣にいる。その事実に感極まった愛之介は幸せそうに名前に口づけた。傍から見ればその挙動は実に不審でしかないが、当事者にとっては真剣に愛の儀式を交わしていることに他ならなかった。



 名前は『妻は夫の趣味を尊重すべき』という本の教えに従い、今まで以上に愛之介の趣味を尊重した。
 議員夫人である名前は行動力の化身であり、あらゆる努力を惜しまなかった。根底にあるのは夫への愛情と善意、熱意である。趣味のスケートボードに熱中し、心ゆくまで楽しんでもらうには煩わしい雑事を徹底的に排除しなくてはならない。そんな決意をした彼女は早速、行動に移した。

「愛之介さん、本日はサプライズで馳河ランガくんをお呼びしましたよ。カナダのプーティン(ポテト)を作ったので、どうぞ召し上がってください」
「土日にある会食は代理で出席します。叔母さまたちのことは私に任せて、鉱山でぜひ楽しんできてください」
「今月発売のスケートボード雑誌です。電子書籍もすべて買い揃えておきました。国内外、発売日順に並べておきましたので、空いた時間にお読みになってくださいね」

 名前は愛之介が趣味に没頭できるよう、あらゆる手を尽くした。国会議員は常に過密なスケジュールに支配されるため、それを支える妻の労力は計り知れない。
 優秀な名前の働きや気遣い。それらを愛之介は好ましく思う反面、夫婦の時間が減っていることに悲しさを覚えていた。

「気遣いは嬉しいが、名前と一緒に過ごす時間が少なくなったのは……とても寂しいな」

 寂しそうに心情を吐露され、名前は気付かされた。彼女はスケートボードという趣味に熱中してもらうべく尽力していたが、夫が本当に欲しているのは大切な夫婦の時間だったのだと。名前は申し訳なさそうに、謝罪した。

「ごめんなさい。あなたに趣味に没頭してもらいたいことばかり考えて、……夫婦の時間を疎かにしてしまいました」
「いいんだ。僕のことを考え、手を尽くしてくれたんだろう?名前の熱意と気遣いには、いつも感謝している」
「でも私はまだまだ未熟で、あなたの良き妻には程遠いです」
「その認識は改めてくれ。名前は僕にとって、最高に良き妻だよ」
「愛之介さん……、とても嬉しいです。ありがとうございます」

 愛之介と名前は夫婦独特の情熱に満ちた甘ったるい雰囲気となり、寄り添った。使用人や秘書の忠がいる前だが、完全に視界からシャットアウトされているらしい。
 神道家では当主と妻がこうしてラブトリップするのは日常であるため、彼らはその睦み合う様子を生暖かく見守っていた。かくして神道家は本日も平和である。



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