自販奇


 恐怖と快感は極めて近い。これは恐怖や快感によって活性化する脳の神経系が、まったく同じということに起因する。
 言い換えれば身の毛もよだつような恐怖は、身を慄かせるほどの快感にひとしい。高校生の愛之介は恐怖をスリルと呼び、快感を愉しんでいた。  
 スケートボードを最高の娯楽とし、夜な夜な屋敷を抜け出ては不良たちに会う。そして危険と隣り合わせの高度な技を心ゆくまで堪能し、披露していた。

「今夜も楽しかったな」

 深夜は魅力的な背徳感があるといえた。家を抜け出し、夜遅くまで遊び歩く。それは政治家一族の厳格な規律に縛られる彼にとって、一種の反抗ともいえた。
 愛之介は夜遊びを終えると、自宅から近い自販機で飲み物を買う習慣があった。墨色の見慣れたフォルム、夜間でも眩い光が商品ボタンや広告を彩っている。

「君に会いに来たよ」

 愛之介はこの自販機に不思議な愛着があり、購入する際はたまに友だち感覚で話しかける。自販機にはルーレット機能があり、購入するとアナログ式の数字が点滅する。四桁の数字がすべて同じだと『当たり』であり、もう一本無料で飲み物が貰えるという仕組みだ。
 愛之介が今夜も飲み物を購入すると、なんとルーレットは『8888』を示し、『当たり』を告げた。
 
「初めて当たったな」

 愛之介は嬉しそうに商品を眺めていく。さほど悩まずにフォンダンショコラ風味のアイスココアのボタンを押し、受け取り口に手を伸ばす。その瞬間、愛之介は硬直した。

 自販機のなかに入れた手を、誰かに掴まれていた。

 暗闇で手を優しく捕らえられる感触。冷えていて、なめらかな質感の肌。華奢でほっそりとした指。
 女だと愛之介は感じた。そして恐慌状態に陥り、即座に手を離した。
 結ばれていた手は実にあっさりと解かれた。受け取り口は透明なアクリル板で閉ざされ、暗闇が広がる。

「……なんだ、今のは」

 恐怖と快感は極めて近い。しかし極大の恐怖は人をおそろしく硬直させる。愛之介は再び受け取り口に手を入れる気にはなれなかった。異様な興奮と恐怖に苛まれ、自販機の眩い光をぼんやりと眺めていた。夏の盛りのせいではない、一条の汗が頬をゆっくり縦断していく。

『ありがとうございます!今日も一日おつかれさまでした』

 女性的な自動音声が流れた。それを皮切りに、愛之介はスケートボードを手に自宅に向けて走った。ふたつの肺が酸素不足に喘ぎ、悲鳴を上げるような全力疾走だった。
 深夜のささやかな密会は、恐怖の遭遇に変貌していた。爾後、愛之介は日中でも自販機で飲み物を購入しなくなった。すべてはこの夜の出来事が原因である。



 月日は流れ、当時高校生だった愛之介は政治家となった。自販機とは無縁の生活を送る彼のもとに、宗家から見合いの話が持ち上がった。
 神道家は分家であり、宗家の意向を無視することはできない。愛之介は面倒だという態度をまったく面に出さず、笑顔で了承した。

「初めまして、神道愛之介さん。私は名字名前と申します」

 見合い相手の女性は丁寧に頭を下げた。墨色の背広とシャツ。最高級の背広に押し込められた肢体は、どこか倒錯的な色香を醸している。差し出された手には、温かな好意と歓迎が伴っているように見える。
 名前の手を握った瞬間、愛之介の脳裏にあの一夜がフラッシュバックされた。
 暗闇で手を優しく捕らえられる感触。冷えていて、なめらかな質感の肌。華奢でほっそりとした指。
 恐怖か快感か、いずれにしても脳髄が深く痺れた。やがて愛之介は乾ききった舌根で、つぶやく。

「……まさか、あの時の」

 名前は愛之介に微笑んだ。蜜を舌先に含ませて喋っているかのような、甘い声。それは自販機の女性的な自動音声に酷似していた。

「嬉しい。今度は驚いて手を離さないんですね」



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -