議員と子犬


※夢主が警察官



 警部補の鎌田貴理子。彼女は今年度、人事異動で沖縄を離れることになった。後任は同期である名字名前。沖縄出身だが、県外の警察署を転々としていた若手だ。ふたりは同期の顔見知りということもあって、すぐに打ち解けた。

「せっかく打ち解けたのに、一緒にお仕事できないのが残念だね」

 名前は貴理子にとって、愛嬌のある子犬のような女だった。犬科の耳や尻尾が付いていたら、一目で機嫌がわかりそうなほど素直だった。人懐っこくて、誰にでも愛らしく吠えて、お手やおすわりを尻尾を振りながら従順にしそうな雰囲気がある。まさに犬が好きな男にとっては、抱き上げて首輪を付けたいと思わせるようなタイプだといえた。

「そうね。一緒に仕事できないのは残念だと思う」

 名前は性質こそ室内飼いの犬のようだったが、与えられた仕事は猟犬のように処理する。これも貴理子にはすぐ分かった。警察官として天性の嗅覚を持ち、しっかり犯罪の芽を狩ることについては、素晴らしい資質があった。
 だからこそ、貴理子は最重要案件を名前に託す意志を固めた。

「神道議員の汚職疑惑についてのファイル、目は通した?」
「ええ。偽証罪の立件として家捜(家宅捜索)の一歩手前まで行って、本部長から直々に中止の令があったとか」
「そう。議員から圧力がかかったのは、間違いない」

 議員の権力は警察の中枢にまで及び、侵食されていたといえる。刑事部のキャリア組として高い検挙率を誇っていた貴理子のチームでさえも、全容どころか尻尾さえ掴むことが出来なかったほどだ。

「今回の人事異動も、神道議員が絡んでると私は見てる。周到で悪事の証拠は決して残さない。今から会いに行くのは、そんな大物よ」

 警察官は犬に例えられることが多い。法の番犬や、悪人を狩る猟犬、市民を守る忠犬などと言われたりもする。今の名前は、狩場を前にした猟犬のようだった。硬質で緊張感のある表情となり、彼女は吠えた。

「貴理子ちゃん、……いえ、鎌田警部補の意志はしっかり引き継ぎます」

 貴理子は心から思う。名前と一緒に仕事ができたらどんなに良かっただろうと。同時にこれから挨拶を兼ねた身辺警護をしに行く人物へ、苦々しく思いを馳せた。
 喉笛をあと一歩のところで噛み損なったというよりは、最初から鎖をつけられて上手く制御されていた。貴理子は唇を噛み、そう振り返る。用意周到な根回しと何一つ悪事の証拠を残さない手際。それらすべてを可能にする悪辣な頭脳と権力を持った、神道愛之介という男を。



「やあ、鎌田警部補。そちらは後任の名字警部補ですね。身辺警護、お疲れ様です」

 神道議員こと愛之介の第一声は明朗で爽やかだったが、それは名前たちへの明らかな挑発を含んでいた。
 新しく来た犬のことは既に知っているという牽制。そしてどんな犬を連れて来ようとも、噛みつくことなど出来ないだろうという余裕を感じさせるものだった。
 貴理子はここで物怖じするタイプではない。後任の名前を有能だと紹介し、時候の挨拶として悪事は必ず暴かれると強気に返した。しかしこの若手議員はそれを軽々と流し、名前へと視線を向けた。

「名字警部補は今年度、新たに就任された名字本部長と同じ名字ですね」
「ええ。父です」
「そうですか。優秀な方々が県警にいることで、僕も議員として仕事がしやすい。友好的にお付き合いして頂きたいものです」
「はい。こちらこそ」

 名前は丁寧に頭を下げた。彼女は仕事中こそ猟犬といえども、根は素直な子犬だった。警戒に値する相手でも、明確な悪人だと決めつけられない以上は恭順に伏せのポーズとなる。しかし、名前はあえて水面下の駆け引きをせず、ストレートな布告をしていった。

「神道議員。悪事を働いている証拠を挙げたら、あなたは私が真っ先に捕まえます」

 敵意ではなく、清々しいフェアプレー精神を感じさせる発言に愛之介は目を瞬かせる。そして猫のように瞳孔を細め、笑った。取り繕った敬語を脱ぎ捨て、愛之介は名前へ好奇のままに顔を近づけた。

「素直で面白い方だ。度胸もある。名字警部補、君に興味が湧いたよ」

 彼は名前と握手を交わしながら、締めくくった。極上の愛想をたっぷり込めた微笑で。

「ああ、そうだ。名字警部補。今度、ぜひ一緒に食事を。……このホテルの最上階にあるレストランでは、鴨のローストが絶品でね。ご馳走しよう」



「……完全に目をつけられたわね。神道議員は名前に女として、個人的な興味を持ってる」
「それはないよ。神道議員は政治家一族の当主だし、そういうお相手は既にいると思う」

 身辺警護を終えた名前は笑って否定したが、貴理子は確信していた。刑事ではなく女の勘で。
 男が鴨のロースト(ロティ)を女に奢ることを、フランスでは『あなたを丸裸にしたい』という淫靡な意味になるのを名前は知らない。貴理子は危機意識がまるでない同期に、特大の警告をした。

「私の予想だと、次の身辺警護も間違いなく名前に依頼してくる。いい?あの悪徳議員に気を許したら、絶対に駄目よ」
「もちろん。悪事の証拠を掴むために、頑張って情報を引き出すよ」

 名前は表情を引き締め、気合いを込めて告げた。貴理子には『わんわん』と愛らしく吠える子犬のビジョンにしか見えない。素直さや善良さは美徳だが、あの議員の前では素直さなど隙でしかなく、善良さは利用される。
 名前が悪辣な男の甘言に唆され、首輪を付けられて飼い慣らされてしまう。そんな最悪な未来図さえ、貴理子は幻視する。やがて心からの懸念が口を突いた。

「……名前。貴女、すぐ騙されそうで不安なんだけど。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、貴理子ちゃん。神道議員は私に任せて。沖縄のことは気にせず、東京で頑張ってきてね」

 今の名前に犬科の尻尾があったら、左右に可愛らしく振っているにちがいなかった。使命感に燃える様子は、まるで主人から留守番を言いつけられた子犬そのものだ。
 貴理子の暗雲のごとき不安は、やがて的中することになる。それも近い内に。


 
 名前は身辺警護という名目で、愛之介に同行することが多くなった。人員は通常、公平にローテーションだが、なぜか名前だけ常に警護要員として駆り出された。
 彼女は直属の課長や本部長である父に抗議したが、決定事項として流されてしまった。
 会談やパーティーに同行し、なぜかフラメンコ教室で一緒に踊ったりもした。これについては流石におかしいと名前は抗議した。すると愛之介は街頭演説をする時のように、真摯に語った。

「護衛をするからには、僕という護衛対象についてより深く理解すべきだ。仮にこの状況でテロリストが襲ってきたとして、僕の身辺を護れるのは名字警部補、君しかいない。わかるだろう?」
「確かに……一理ありますね」

 この警部補、納得してしまったのである。驚くほどチョロかった。名前は常に愛之介の後ろを子犬のように歩き、要望があれば議員夫人のように付き添った。
 本日は鴨のローストをご馳走され、会談の会場に着くまで、一緒の車内で雑談に付き合わされていた。

「名字警部補。僕が悪事を働いているという証拠は、何か掴めたか?」
「……いえ、全然です」
「だろうな。君は僕を真っ先に捕まえるために、ずっと追いかけなくてはいけないな」

 愛之介は実に満足そうに微笑んだ。まるでずっと追いかけられたい子どものように、無邪気な笑声を上げながら。

「僕は犬を一匹飼っている。昔から一緒で、どんな命令も遂行する優秀な忠犬だ」
「そうなんですね。素敵です」
「最近、実はもう一匹飼いたいと考えている。美人な警察犬で、常に僕の後ろを健気についてくる。今は隣で吠えているのが可愛らしくてね。早く首輪を付けてしまいたいくらいだ」

 名前はそこでようやく気付いた。胃にすっかり収まった鴨のローストの真意を、体感させられる間際だということに。身辺警護と書いて、デートというルビが常に振られていたことに。
 自身が首輪を付けられる寸前になって、必死に吠えても遅かった。どう嘆いても『わんわん』と愛らしく吠えるビジョンにしかならない子犬は、悪辣な主人に飼い慣らされる未来しか残されていなかった。



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