血筋


 恋される理由も憎まれる理由も、すべてが愛らしかった母。機嫌が良い時は、娘の私にいつもある秘密を囁きました。

「名前。お母さんには、昔からとても好きな男のひとがいるの。愛一郎さんっていうのよ」

 母は父ではない男(ひと)の名前を、とても愛おしそうに呼びます。子どもながらに、私はどれくらい好きなのかと問いました。すると母は幸せそうに頬を緩めました。その答えは一字一句に至るまで、幼かった私の脳裏に焼きつきました。

「一緒に死んでもいいくらい、愛しているの」

 それは可憐な不幸と破滅的な幸福を感じさせる響きを持っていました。父には病める時も健やかな時も永遠を誓っていたはずでしたが、一緒に死にたいほど愛する男は別にいたのです。私が成人した頃、母はとうとう『愛一郎さん』への愛情を過去形で語らないまま、亡くなりました。
 遺品の整理をしていると、母が大切にしていた一冊の英書を見つけました。『I'll never fall in love again. I will love you as long as I am alive.(私は二度と恋に落ちないでしょう。この命がある限り、あなたを愛し続けます)』という愛の言葉が書かれたページに、一枚の写真が挟まっていました。

「これは、」

 写真には薔薇の庭園を背景にした、若い男性が映っています。高雅で厳格そうな輪郭をしていながら、目もとや口もとは優しげな風情がありました。母が愛し、恋焦がれた男だとすぐにわかりました。なぜなら恋される理由も憎まれる理由も、写真だけで生々しく伝わってくるからです。
 私は『愛一郎さん』という男性に、とても惹かれました。そう、まるで母が憑依したかのように。

「……会いたい。この人に、どうしても……、」

 私は強烈に惹かれながらも、恋心を認めることを恐れていました。母のように深い愛執に囚われるのは目に見えていたからです。私は想いに逆らうように、別の男性と付き合い始めました。しかし、どの男性と付き合っても長続きせず、すぐに別れてしまいました。

「その男じゃないのよ、名前。あなたが狂い、狂わされるのはその男じゃない……」

 若い頃の母の幻影はいつも後ろから覆い被さり、耳に生々しく囁いてきました。紅が引かれた朱唇は緩やかに弧を描き、豊かな黒髪が波打っているのが見えずともわかりました。私の内(なか)にいる母が求めている男は唯一人だけです。それは痛切なほどにわかりました。
 恋と地獄は落ちるものだという話を聞いたことがあります。母も私も生きながら、すでに両方とも落とされていました。男に惚れるという甘美な地獄に。
 そんな時でした。私が沖縄へ仕事で異動になり、父から神道議員を紹介されたのは。

「名前。この方は仕事でよくお世話になっている、神道議員だ」

 私は神道議員を一目見て、驚きました。彼は愛一郎さんと瓜二つの容姿だったからです。ダークブルーの最高級のスーツに、高雅でどこも美しい鋭利さを持った顔立ち。母が生涯愛した男の系譜である彼は、神道愛之介と名乗りました。

「よろしくお願いします」
「神道議員。こちらこそ、よろしくお願いします」

 神道議員と友好を示す握手を交わした時、肌が軽く吸いつくような感覚がしました。初めて触れたのに、まるで久々に慣れ親しんだ肌に触れたような。そんな不思議な懐かしさを感じ、驚きました。
 私はようやく会えたという歓喜よりも、とうとう会ってしまったという因果を強く感じました。神道議員の手は熱く男らしい硬質さがあり、ずっと触れられていたいような心地良さがあります。
 きっと近い内にこの手に執拗に甘く弄ばれ、深く狂わされる。そんな淫靡な予感を抱きました。すると母の幻影は満足そうに、吐息で私を炙りました。

「名前。あなたが狂い、狂わされる男が誰かわかったでしょう。愛し、愛されるの。愛一郎さんと私のように……、」



 私と愛之介さんは、徐々に親交を深めていきました。やがてお互いに名前で呼び合い、親しい間柄になるまで時間はさほどかかりませんでした。
 彼は愛に満ちた人物として常に笑顔でいながら、深い孤独をずっと飼い慣らしているようでした。
 次第に私は愛之介さんの内面に触れたい、と考えるようになりました。何もかも満ち足りているようでいて、何かが美しく欠落している彼。その欠落さえ慈しみたいと、おこがましくも願ってしまったのです。
 私はいつしか写真で見た母の想い人ではなく、愛之介さんを愛しく想うようになりました。一緒に死んでもいいと縋った手を、彼は受け止めて握り返してくれました。

「父は実の息子にも厳格で冷徹だったよ。唯一、心からの笑顔を見せたのは、……あの写真を見る時だけだった」

 ある日、愛之介さんは書斎から一冊の英書を持ち出し、私に見せてくれました。それは母が大切にしていた英書と同じものでした。『I'll never fall in love again. I will love you as long as I am alive.(僕は二度と恋に落ちないだろう。この命がある限り、君を愛し続ける)』という愛の言葉が書かれたページには、一枚の写真が挟まっていました。
 そこには薔薇の庭園を背景に、私に非常によく似た若い女性が映っていました。母でした。写真の母はとても嬉しそうでした。きっと一緒に死んでもいいくらい愛している男に見つめられ、撮られたからでしょう。その愛らしい媚態は、娘の私にも決して見せなかったものでした。

「僕は最初、厳格な父を愛に狂わせたその女性に興味が湧いた。父が亡くなってからは、さらに彼女に惹かれたよ。まるで父に憑かれたように」

 死後に初めて父のことが理解できたようだと、愛之介さんは微笑みました。私が母の幻影を未だに視るように、彼も憑かれているのかもしれません。ひたすら愛した者の面影や血筋を狂おしいほど求める、亡霊に。

「私の母はいつも言ってました。『一緒に死んでもいいくらい、愛している』と」
「僕の父はこう言っていた。『一緒に生きたいと願うくらい、愛している』と」

 決して過去形ではない、確かな熱量を持った愛の言葉。私たちは未練を遺したまま世を去った男女の睦言を、時代を越えてようやく口にすることができたのでした。

「父は宗家に婚約者を見繕われ、神道家当主として愛してもいない女と政略結婚をさせられた」
「……そう、だったんですね」
「君の母は身を引いて他の男と結婚したが、父は『今は信頼できる男に預けているだけだ。いつか迎えに行く』と最期まで強がっていた。だが、僕は父とは違う」

 愛之介さんは私の片手を取って、五指のすべてを絡めました。熱くて心地良い体温と、肌にわずかに潤う汗すら愛しく感じました。

「こうして一度捕まえたら、離すつもりはない。名前、君とは病める時も健やかな時も、生を楽しむ時も死を迎える時も一緒だ。僕に愛を誓ってくれるか?」

 父親よりも貪欲な彼は、一生のすべてを愛に殉じ、誓ってほしいと乞いました。血潮のように赤い瞳は確かな熱量にあふれていて、私の何もかもを狂わせるには充分でした。
 身体中に流れる血が、歓喜しているかのように脈打ちます。亡き母もきっと、この昂揚と愛の絶頂を味わったのでしょう。愛し、愛される喜びを。

「喜んで誓います。一緒に死んでもいいくらい、愛之介さんを愛していますから」



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