グラスとシャンパン


※公式のドラマCD(ホスクラパロ)ネタです。
※愛之介がホスト。(オーナー兼業ではない設定)


 ホストとは夜に生きる華やかな搾取者だ。高価なシャンパンに極上の愛想。甘やかな恋に似た会話に、蠱惑的な駆け引き。
 このホストクラブでは、ひとりの男が唯一の頂点として君臨していた。舌先で甘く粘るような天性の声質、どんな人物も瞬く間に魅了する会話の巧さと気遣い。そのホストの源氏名は愛抱夢という。
 金品も想いも無常に巻き上げられる。女たちはそれらを知りながら、次々と差し出していく。愛抱夢のイブになりたいのだと競り合い、伝票を散らしていった。

「君には無理してほしくないな。でも掛けにして一緒に飲んでくれたら、僕は嬉しいよ。」

 掛けはツケ払いのことだ。高額なシャンパン代を後で払わなくてはいけないが、女たちは喜んで頷く。恋心も金も奪われるからこそ快感なのだと、言わんばかりに。
 愛抱夢はホストの激戦区たる歌舞伎町をたった一ヶ月で制覇し、頂点に君臨した。都内の界隈で伝説を残した後は沖縄に戻り、こちらでも指名率トップの地位を不動のものにしていた。
 彼をたとえるなら、シャンパンタワーの頂点に存在するグラスだった。頂点に君臨し、誰もが羨む栄華を誇っているのに、愛抱夢はひたすら孤独を感じていた。

「……どこかに僕を満たしてくれる、そんな最高のイブはいないかな。」

 つぶやきは華やかな喧騒に消えていく。自分の空の器を心ゆくまで満たしてくれる存在を、愛抱夢は密かに渇望していた。しかしどれほど夜の街を探しても、シャンパンのごとき最高のイブはいなかった。
 満たされない。その渇きに苦しみながらも、愛抱夢として夜に身を投じていく。

「待たせたね。さあ、始めようか。」

 愛抱夢は虚しさを隠し、極上の笑みを以って宣言する。女たちが欲しいのは愛されているかのような夢を抱かせてくれる、虚構の男だからだ。


 
 愛抱夢こと神道愛之介はオフの日に、あるキャバクラに来ていた。
 ホストクラブを経営するオーナーと一緒に、系列店へ挨拶を兼ねて来店した。つまりオフではあるが仕事の一環だ。赤い薔薇の花束はキャバクラのオーナーに手渡す予定だったが、現在手が離せないらしい。この界隈では直接手渡しすることに意味があるため、彼らは美酒や嬢との会話を堪能しながら待つこととした。
 愛之介たちは客として歓迎され、もてなされた。卓についた最も高い指名率を誇る嬢との会話はそれなりに盛り上がり、美酒が交わされていく。
 しかし、今の愛之介の胸中を占めるのは虚しさだった。楽しい気持ちはあるが、決定的にどこか満たされない。そうしてグラスにある氷たちを虚ろに眺めていた時、柔らかな声が降ってきた。

「失礼します。お客様よりご指名が入りました。」

 心地良い声だと、愛之介は最初に感じた。耳に甘く馴染む柔らかな音色に蕩かされた。
 申し訳なさそうに卓を後にする美人な嬢や、気前良く飲んでいるオーナー、客たちの賑やかな笑声。それらすべてを忘れて、声の持ち主を見つめた。
 黒服(ウエイター)の女だった。その制服の左胸には『名字』と刻印されたネームプレートが、品良く添えられていた。姿勢良く屈み、控えめに微笑んでいる。その佇まいの美しさに愛之介は惹かれた。声と雰囲気だけで心を躍らされ、身を踊らせたくなる。愛之介はそんな強烈な体験をさせられた。

「待ってくれ。」

 愛之介は去ろうとする彼女を引き止めた。話したい、目を合わせたい。まるで恋したばかりの少年のように昂揚していた。

「……実はタブレットの使い方がよくわからないんだ。教えてくれないか?」
「承知しました。お教えしますね。」

 彼女は嫌な顔ひとつせず、再び屈んで愛之介に丁寧に教えた。清楚な珊瑚色の爪は透明のネイルに彩られ、ほっそりとした華奢な指先が示していく。
 この指に縋られ、爪を立てられて引っ掻かれてみたい。愛之介は初対面でありながら、そんな不埒な夢想すらした。
 説明の度に動く唇は柔らかそうであり、優しげな声はひたすら愛之介にとって心地良い音として響いた。

「愛抱夢、黒服の名前ちゃんが気に入ったのかい。」

 オーナーが豪快に杯を空にし、笑声を上げた。他人の色恋と不幸に敏感な男は早くも嗅ぎつけたらしい。含みのある笑みのまま、解説していった。

「名前ちゃんはこのキャバでは隠れた主役なんだよ。華やかな嬢たちに並ぶほど、丁寧な接客が人気なんだ。」

 オーナーの口から語られた評判よりも、名前という名前が知れたことが愛之介には大きかった。なんて可愛らしい名前だろうと、彼はさらに上気してしまう。愛之介は今の杯を空にすると、花束から無造作に一輪の赤い薔薇を手に取り、名前に贈った。

「丁寧に教えてくれて、ありがとう。これはお礼とお近づきのしるしだよ。」

 すると名前は一瞬驚いたものの、薔薇を受け取って優しく礼を告げた。

「お客様に薔薇を贈られたのは初めてです。ありがとうございます、愛抱夢さま。」

 名前は茎の部分を器用に結び、左胸のネームプレートの近くにピンで薔薇を飾った。禁欲的な黒に華やかな赤が添えられ、それは実に美しく映えた。
 名前を呼び、客からの贈り物を大切に扱う。そんな名前の黒服(ウエイター)として高い職業意識ゆえの反応は、愛之介の昂揚を最高潮のものにさせた。
 自身の空だったグラスに甘い泡を立てて注がれ、瞬く間に満たされていく。彼女こそがシャンパンのごとき最高のイブだと、熱い吐息がこぼれた。

「ああ、君こそが……僕のイブだ。」

 愛之介の脳内では、ベートーヴェンの交響曲第五番が荘厳に響いた。冒頭の印象的なフレーズが『運命の扉を叩く音』だと称されている名曲。この夜、愛之介にとっての運命の伴侶が、まさに扉を叩いて現れたのも同然だったのである。



 あの運命の日を迎えて以降、愛之介は名前目当てでキャバクラに頻繁に足を運んだ。
 黒服(ウエイター)として仕事をしている名前は凛々しく、彼は心を躍らせながら眺めた。その姿を視界に入れるだけで、世界のすべてが薔薇で彩られたかのような幸福を感じていた。
 愛之介は来店の度に、ささやかなプレゼントを心付けとして名前に贈った。女たちに金品も想いも捧げさせて搾取してきた男は、今や捧げる喜びに目覚めていた。

「いつも貰ってばかりで申し訳ありません。今度、愛抱夢さんのいるホストクラブに遊びに行かせていただきますね。」

 名前から律儀にもそう告げられた時、愛之介はその場で踊り出したいほどに歓喜した。ステップを刻みそうになる足を懸命に抑えつつ、息を弾ませた。

「それは嬉しいな。来店する日時が知りたいから、LINEを教えてくれないかな?」

 こうしてLINEを交換し、彼らは会話にさらに花を咲かせていった。愛之介は名前が初来店すると決まった日には、いつも以上に装いに気を遣った。まるで孔雀のオスが自身の飾り羽を最も美しい状態で、愛しいメスに見てもらいたいかのように。
 平常以上に贅沢かつ華やかな雰囲気は、他のホストたちからも噂になるほどだった。

「今日の愛抱夢さん、いつも以上に華やかだ。バーイベの時ぐらい気合い入ってるな。」
「確かに。特別なエースが来店するんじゃないか。」

 バーイベとはバースデーイベントのことであり、主役のホストは最も稼げるイベントであるため、最高の装いをする。そしてエースは客の中で最も金を使う太客のことであり、接客は必然的に気合いの入ったものになる。
 彼らは知らない。愛抱夢が今宵、最も歓待する相手はエースどころか初来店の客であることを。

「こんばんは、愛抱夢さん。」
「いらっしゃい、名前。待っていたよ。」

 やがて時間通りに来店した名前を、彼は愛抱夢として歓迎した。ホストクラブでは来店した客を姫と呼び、尊ぶ。彼は姫君を迎え入れる王子のように名前の手を恭しく引いて、席へと導いた。
 会話が盛り上がることを『花が咲く』というが、ふたりの会話はいっそ花が乱れ咲くくらいに盛り上がっていた。好物やお互いの趣味であるスケートボードの話に至るまで、心ゆくまで美酒を交えて話した。

「ああ、こんなに楽しいのは久しぶりだよ。」

 愛抱夢の口から矜持も見栄もない、心からの本音がこぼれた。彼が極上の愛想をするのは、高価なシャンパンを入れさせるためだが、名前の前では素の喜びが出てしまうらしい。ヘルプのホストに単価控えめで煽らせることもせず、ただ無邪気に今あるシャンパンを美味しそうに口にしていた。

「私もです。愛抱夢さんはお話するのが、とても上手ですから。」

 名前の弾んだ賞賛の声は、ひたすら愛抱夢を酔わせた。まさにシャンパンのように。
 グラスを持つ華奢な手。この手になら縋られ、刺されてもいいと危うい夢想すら愛抱夢は抱く。愛されているかのような夢を抱かせる男は、いつしか愛してほしいという夢を抱くようになってしまった。金も愛もすべて捧げてもいいと、渇望するほどに。

「名前、君はこのシャンパンそのものだ。君だけが僕を満たせる。」

 それは愛抱夢、神道愛之介としての最高の口説き文句に他ならなかった。シャンパンタワーの孤独な頂点に座する空のグラスを満たせるのは、シャンパンだけだからだ。

「愛抱夢さん、あなたのグラスをこれからも満たしてあげたい。心からそう思います。」

 名前の甘やかな同意の返事に、愛抱夢は心から嬉しそうに口もとを緩ませた。交わされた杯は舌先を蕩けさせ、華やぐ夜はふたりのために存在していた。
 グラスとシャンパンが出逢ってしまったら、注ぎ注がれ、満たし合うしかない。さながら楽園のアダムとイブのように。



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