悪妻の心得


 自由になりたい。本当は仕事をずっと続けたかったのに、政略結婚ゆえに断念してしまった。遂に私は失ったものを取り戻すべく、行動することにした。
 神道愛之介の妻という立場を捨て、なるべく実家に迷惑をかけず、自由な独り身を謳歌するにはどうしたらいいか。私は本気で考えた。そして導き出した結論は悪妻になることだった。まず手始めに『悪妻の心得』という本を購入し、蛍光ペンで念入りにマークした。それによると、悪妻になるには四つの条件があるらしい。
 権力欲が強い、嫉妬深い、自分勝手で自己主張が強い、夫に従順ではない。私は早速、上から順に試してみた。

「愛之介さん。私は権力のある偉い議員の妻になりたいんです。総理大臣まではいかなくても、政党の代表ぐらいにはなってほしいの。分かるでしょう?」

 権力欲が強い悪妻のセリフ、まさに会心の出来だと思う。まったくその気がないだけに、すらすらと言えた。愛之介さんは驚いた表情をしている。私はすかさず、たたみかけた。

「それに昨日、女物の香水をつけたまま帰ってきたでしょう。本当に嫌だったし、苛々しました。今後はやめてくださいね。次に同じことをしたら許しませんから。」

 嫉妬深く重い女の演出、これも大成功だと思う。そして一方的に責めておきながら、勝手に退出。誰がどう見ても自分勝手で自己主張が強く、夫に従順ではない悪妻ムーブだ。自分には悪妻の素質があるかもしれないと、不思議な昂揚感すら覚えていた。
 その後も悪妻であることを心がけた。体調が悪い料理人を無理やり休ませ、自ら厨房に立った。質素な和食を作り続け、贅沢な洋食に慣れているであろう夫の胃をいじめた。朝は一時間早く起こす嫌がらせを行い、ジョギングすることを強いた。
 フォンダンショコラをたくさん作って出張の時に持たせ、忙しい時にも高カロリーを摂取させるように仕向けた。

「これで離婚も時間の問題……!」

 夫婦仲は確実に冷え切っていて、氷河期を迎えている。後は向こうから離婚を切り出されるのを待つだけ。
 自由へのカウントダウンは始まっている。私は楽しみながら、明日の献立を考えた。今では体調の良くなった料理人と日替わりで考えている。もちろん、質素な和食だ。これもすべては贅沢に慣れた夫に嫌がらせするため。我ながら、完璧な悪妻ムーブだと思う。



 私はある日の夜中、愛之介さんの書斎に招かれた。重要な話があるらしい。とうとうこの日が来たかと、唇を引き締める。離婚にあたり、どんなに酷い罵倒を浴びせられ、詰られるか。覚悟を決めて入室した。
 愛之介さんは厳冬期を迎えたような険しい顔をしていた。まるで選挙戦の投票結果を見守る議員のそれだ。思わず息を呑むと、彼はゆっくりと口を開いた。

「名前、結婚記念日おめでとう。」
「え?」

 厳冬が過ぎ去った、春の陽射しのような微笑みだった。

「今日は僕たちが結婚して一年目の記念すべき日だ。これはそのお祝いだ。」

 愛之介さんはお祝いに香水を贈ってきた。それは以前、彼の服に感じた女物の香水と、まったく同じ匂いだった。薔薇と葡萄の贅沢で甘やかな匂い。特注品なのはすぐに分かった。

「あの時の匂いは、まさか……」
「名前が勘違いで嫉妬してくれた時は嬉しかったよ。ああ、……とてもラブリーだったな。動画に録っておきたかったくらいだ。」
「録らなくていいです!」
「それから、政党の代表補佐に選ばれたよ。高野の代理を傀儡とし、実質の代表になった。つまり政党のトップは僕だ。」
「えっ」
「『権力のある偉い議員の妻になりたい』と言ってただろう?可愛い妻の願いを叶えたまでだ。」

 愛之介さんは私が与えた無理難題を軽々とクリアし、ウィンクまでしてみせた。ハートマークすら幻視できる魅惑的な所作だった。

「名前が作ってくれた胃に優しい和食とフォンダンショコラのおかげで、予算委員会も乗り切れたよ。朝のジョギングも効果的で目覚めが良くなった。」
「ぐっ……それは嫌がらせです。私、本当は悪妻なんですよ。」
「誰が何を言おうと、名前は僕にとって最高にして最愛の妻だ。これからも愛しているよ。」

 最低の悪妻ムーブのつもりが、最高の良妻ムーブになってしまったらしい。自由どころか、さらに夫婦として束縛される結果になってしまった。悪妻とは、議員夫人にとっての良妻の定義に他ならなかった。
 権力欲が強い、嫉妬深い、自分勝手で自己主張が強い、夫に従順ではない。政界はそれらすべてが美徳となる魔窟だった。

「自由……自由が欲しかっただけなのに……、」

 薔薇と葡萄の甘やかな匂いに囲まれ、良妻として愛でられる。それだけが私に与えられた自由だった。



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