キクチ様


※土着信仰のような話。



 古くより、この地には白い大蛇の姿をした男神がいた。
『白かがち(蛇)は吉兆の印』『吉の口』であるから、人々からキクチ様と呼ばれた。キクチは畏敬され、熱心に信仰されて崇められた。しかし月日と共に信仰は廃れ、人々は彼を忘れていった。
 キクチはひっそりと孤独に生きていた。廃れた社に住む彼は信仰の力を失っていたため、往時の大蛇の姿から一匹のちいさな幼蛇となっていた。彼はある日、社を飛び出して草叢を這った。慣れない外界にすっかり疲れ果てて、やがて彼は強く死を思った。
 すると死に際の暗闇に、やわらかな声が降ってきた。

「白い蛇……?とてもきれいだし、縁起がいいね。」

 人間の娘が身を屈め、キクチをそう褒め称えた。人の子に褒められるのはずいぶん久しぶりのことであり、彼はなんだか面映い気持ちを抱いた。
 彼女は弱っているキクチを連れ帰り、手厚く労って世話をした。

「昔ね、この辺りでは白蛇信仰が盛んだったそうなの。キクチ様という大きな白い蛇の神様がいて、人々から尊敬される存在だったみたい。」

 彼女の家は代々白蛇を信仰してきたのだという。祖母が病に臥してから、その風習が家の中で廃れてしまったこと。彼女が深い信仰心を持ち、心根が優しい娘であること。キクチは短い付き合いのなかで、この人の子に深い愛着を抱いていた。

「キクチ様はあなたみたいに浅緑の目をしていて、右目の下に黒の斑点がある。もしかしたら、あなたは神様の子孫なのかもしれないね。そう信じたくなってきたよ。」
 
 娘はキクチを恐れず、しかし敬うように丁重に接していた。暖かな交流は続き、次第にキクチは神の立場を捨て、人として彼女を愛し、生きたいと願うようになっていった。彼はやがて娘から寄せられる信仰の力を使って自らの姿を人に変え、愛を告げた。
 娘とキクチは愛し合い、彼女はやがて子を腹に宿した。生まれた子は男児であった。その子は白い肌を持ち、浅緑の目をしていて、右目の下に黒の斑点のような黒子があったという。



 菊池家は代々、白蛇を神聖なものとして崇めている。先祖がキクチ様という白い大蛇の男神で、その子孫が自分たちであると控えめに囁かれてきた。
 彼らには直系の子孫である証として、身体的な特徴があった。それは白い肌を持ち、浅緑の目をしていて、右目の下に黒の斑点のような黒子があるという。いずれも何故か男だけに顕れる特徴なのだと、忠は淡々と告げた。

「忠さんの家系の話って面白いね。」
「……酒に酔っていた祖父から聞いた話です。信憑性には欠けるでしょう。」

 キクチ様という白い大蛇の神は人間の娘を愛し、畏敬ある神の座を捨てた。人々に忘れ去られ、信仰の力を失っても、人を愛することをやめられなかった。神と呼ぶにはとても人間くさい欲を持った存在だと、忠は昔から祖父に聞かされる度に思っていた。

「その話を信じるよ。キクチ様は律儀で優しくて、人を心から愛する神様だったんでしょう? 忠さんによく似てると思うから。」

 名前はキクチ様の実在を信じ、忠がその子孫だと信じて疑わない純真さでそんなことを言う。
 人ならざる先祖もこのような気持ちだったのかと、忠は眩むような心地で名前を見つめた。彼が人間の娘を愛したように、己もまた同じ轍をなぞろうとしているのかもしれないと。

「名前さんは過大評価が過ぎますね。私はそのような人間ではありません。」

 律儀で優しいのは下心があるからだ。キクチ様は人間の娘を誰にも渡さず、絡めて離さないようにするために自ら人へと姿を変えたのだろう。それは愛という名の深い執着に他ならない。忠は実在したかも疑わしい、しかし自らに酷似し、肉薄するような先祖へと思いを馳せた。

「忠さん、」
「今はこちらに集中してください、名前さん。」

 忠は名前へと愛しげに口づけしながら、片手を絡めていく。そうして甘やかな交歓のさなか、名前の胎に自身の子が宿ることを忠は密かに夢想した。その子はきっと白い肌をしていて、浅緑の目をしている。そして右目の下に黒の斑点のような黒子があるだろうと、甘美な確信を抱いた。



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