※夫婦設定
※本編から数年後、選挙戦を迎えたという前提です。
民衆を熱狂させる天性の声質。シンプルで力強い主張とボディーランゲージ。有権者に好かれる好青年の笑み。主演俳優のような圧倒的な存在感。
広場では『私達の愛は地球を救う』を選挙スローガンに掲げている政治家、神道愛之介が街頭演説を行っていた。
─── 沖縄県民の幅広い層から絶大に愛され、支持されている若手のカリスマ政治家。
週刊誌でそう絶賛されていたことが、名前の脳裏によぎる。カリスマ的な政治的指導者は人々の心を掌握し、熱狂させることが非常に上手いということも。
彼の演説は主に夕方に行われる。西陽を背景に政策や方針、時にロマンチックな美談も交えて演説していく。聴衆は増えていき、なかには感動のあまり涙ぐむ者さえいた。
「すごい……、」
名前は聴衆のひとりとして、そんな賛嘆が口から滑り落ちた。普段の彼女は議員夫人として愛之介の傍らにいるが、今日は有権者として演説を聴きたいと主張した。その試みは、名前にとって非常に新鮮なものになった。
恐ろしいほどに熱気のある演説。議員としての愛之介は人々を心酔させ、力を尽くそうと思わせる一種の蠱惑的な魅力があった。支持する有権者というよりは、熱い信奉者となった聴衆は、演説が終わると万雷の拍手を愛之介に送った。
「ご清聴、ありがとうございました。皆様の愛が支えになります。神道愛之介をどうぞよろしくお願いします。」
『愛』というキーフレーズを彼は好んで使った。自らの名前さえも選挙のアピール材料にする、したたかな戦略。名前は議員モードとなった夫の仕事ぶりに、改めて感心するばかりであった。
※
「……名前、疲れた。甘やかしてくれ。」
シンプルな懇望と一緒に、愛之介はベッドにいる名前の膝へと寝転がった。老舗で仕立てたロイヤルブルーのスーツが皺になるのも構わず、もう一歩も動きたくない子どものような表情をしている。数時間前、演説で民衆を熱狂させた議員と同一人物とは、にわかに信じがたいものだった。
名前はそのギャップに驚きながらも、甘えてくる夫を愛しむ。慈母のような手つきで髪を撫で、労った。
「お疲れさま。議員モードはもう解除したの?」
「ああ。また明日以降、連日で別の場所で演説があるから、今日はもう休むことにしたよ。」
街頭演説は舞台に例えるなら、リハのない本番を千秋楽(公演最終日)まで走り抜けることにひとしい。
また演説だけではなく、様々な地域に足を運んで有権者に笑顔で握手をしたり、話を聞いたりする。票に繋げるためなら、こういったアピールや配慮もしなくてはならない。選挙戦は肉体的、そして精神的にも非常に負荷がかかるイベントなのは間違いなかった。
そのため素直に甘え、癒しを求めてくる彼を名前はどこまでも甘やかした。
「愛之介さん。今日の演説、素晴らしかった。よく頑張ったね。」
月下の湖のような青の髪を何度も優しく撫でていき、胸の上に手をそっと乗せる。名前のそれは遊び疲れた幼子を見守るような触れ方だった。
やがて夫の反応がないことに名前は気付き、子ども扱いは気分を害してしまったかと手を止めた。
「……もっと、」
「え?」
「もっと褒めてくれ。」
告げられたのはシンプルな絶賛の要求だった。名前は視線をさまよわせ、考えつく限りの言葉で褒めていく。
「愛之介さんは実力派で、若手議員のなかでもカリスマ的な存在。」
「もっと、」
「老若男女に大人気。幅広い世代に愛されていて、週刊誌の調査では好感度No.1の国会議員。」
「もっと、」
「えーと……圧倒的な存在感。端正なルックス。情熱的な魅力と色香が止まることを知らない。」
「……もっと。もっとだ、」
名前はその後もねだられるままに、褒め続けた。賛美の言葉が品薄になってきたところで、ようやく要求が止まる。上機嫌な雰囲気をまとった愛之介が上半身を起こした。
「褒めてくれた礼だ。今度は僕が甘やかす。」
名前の腰を抱きよせ、唇へたっぷりキスしていく。最初は戯れるように短く、触れあう。そして蕩けるような余韻を味わった後、唾液を滴らせた舌で先端や舌裏を、食べあうように舐めあっていく。
やがてベッドに優しく押しつけられた名前は、軽く抗議の声を上げた。不埒な手つきをちっとも止めてくれない、目の前の愛しい夫に。
「もう……明日も演説、あるんでしょう?」
「ああ、わかってる。」
民衆を熱狂させる天性の声質は、妻を愛でる音色に。シンプルで力強い主張は、欲求を伝える甘やかな主張に。人好きのする好青年の笑みは名前にしか見せない、男らしい色香のある笑みへと変わっていく。
議員モードから、完全にプライベートモードに移行した愛之介を止める術を名前は持たない。妻として愛されること。それだけが今、名前にできる甘やかし方だった。