"S"、その名は主婦の戦場


※完全にコメディです
※愛之介と夫婦という設定




「奥さま、"S"の準備が整いました。」

 執事のように恭しく一礼したのは、政治家秘書の菊池忠だ。熟した林檎のような帽子に暗緑色のジャケットとラフなズボン。そんなキャップマンとしての格好をした彼は、主人の号令を控えめに待つ優秀な忠犬のようである。

「ありがとう。今日の私達の"S"はいつも以上に激戦になるでしょう。同志として頼りにしている。」

 数多の戦場を体験してきた女傑のごとく頷いたのは、神道家当主の妻である名前だ。そのまなざしには戦友への強い鼓舞が込められていた。今の彼らに主従関係はなく、ただ共闘する戦友のごとき熱い関係があった。

「もったいないお言葉、ありがとうございます。本日は15時からスタートですが、必ずや勝利をお届けします。」
「頼もしいね。本日のルートは?」
「こちらにご用意しました。」

 忠は懐から朱書きの地域図を取り出す。その図に書き込まれた情報量や正確さといい、彼の丁寧な仕事ぶりが伺えるものだった。名前が目を通そうとした瞬間、扉が派手な音を立てて開かれた。

「名前、忠。僕に黙って"S"とは、どういう了見だ?」
「あ、愛之介さん!?」
「愛之介さま……!」

 これが漫画のワンシーンなら、集中線が書かれていそうな注目度だった。背景音楽を付け加えるなら、愛抱夢に扮した際のラテン調の音楽が流れているだろう。

「ここ数日、揃って秘密裏に出かけていたのは知っている。僕に隠していた理由を教えてもらおうか。」

 愛之介は名前と忠が秘密裏に会合しているのを知っている。その会合後はふたりで出かけること、そして家に帰ってくるのは夕方頃。どう考えても怪しいと彼は常日頃から考えていた。
 神道夫妻の夫婦仲はとても良好である。愛之介には名前が不貞を働くようには到底見えなかったが、彼女が忠と隠れるように一緒に出かけていたのは事実だ。
 彼らの言う"S"とは自らが創設した極秘のレースではなく、実は何かの隠語なのかと、愛之介は夫として猜疑と嫉妬に燻った。

「知られてしまったからには、話しましょう。」
「奥さま、しかし……、」
「名前は犬よりは賢いみたいだな。弁明を聞こう。」
 
 愛之介は不遜な雰囲気のまま、告げた。その視線は野党を厳しく追及する議員然としたものだった。名前はその視線を受け止め、真面目に答えていく。

「ずっと理解されないと思って、愛之介さんに隠していたけれど……正直に言うね。実は忠さんとスーパーへ通っていたの。ここでいう"S"はセールの略。つまり、スーパーのタイムセールのこと。」
「私と奥さまは定時に集まり、作戦会議を開いていました。いかに効率良くルートを回り、商品を手にするか。そのために尽力していました。」
「は?」

 愛之介は一瞬で脳波停止状態に陥ったらしい。数秒前までの不遜さは消え失せ、理解に苦しむあまり秀麗な眉目をゆがめていた。
 忠は主人に説明すべく、手にしていた地域図を広げていく。地図には近隣のスーパーマーケットが朱書きでピックアップされ、タイムセールの時間と商品が丁寧に書かれている。愛する妻と自らに忠実な犬のごとき秘書はこのために行動し、計画を立てて出かけていた。愛之介の明晰な頭脳は状況をすぐに把握したが、理解には難色をしめした。

「理解できないな。」
「やはりご理解いただけない様子ですね。」
「それは仕方のないことね。愛之介さんはスーパーに行った経験があまり……というか、なさそう。」
「踏み入れたことのない、未知の領域なのでしょう。イオンの名も存じないかもしれません。」
「馬鹿にするな、イオンくらい知っている。」

 全国にチェーン展開する大手スーパーマーケットの名は流石に知っていたらしい。しかし生粋の上流階級に属し、国会議員という社会的地位の高い彼にとって馴染みがない場所にはちがいなかった。
 
「愛之介さんも行ってみない?スーパーでしか味わえない"S"を体験できると思うし。」
「なんだと……?」
「愛之介さま。差し出がましいことを申しますが、これは一般家庭の懐事情や生活を知るチャンスでもあります。」
「次回の選挙で役に立つと思うよ。スーパーに行く議員というコンセプトなら、きっと有権者の方々に親しみを持ってもらえるし。」

 名前と忠から実益的な提案がなされた。スーパーの事情に詳しくなれば、有権者への演説時に効果的だと議員としての計算が働く。そして何より名前の熱意が愛之介には気になった。
 タイムセールとは、それほどまでに熱狂するイベントなのか。愛之介は強い好奇心のままに告げた。

「そこまで言うなら行こう。忠、車の準備をしろ。」

 その宣言に名前と忠は顔を見合わせて、喜びをしめした。かくしてスーパーマーケットへの遠征が始まったのである。



 限定された時間内で、商品をいかに安価で早く買うか。それに熱狂する人々は確かに存在した。
 『たかが数百円の世界、定価とさほど変わらないのではないか』というのは、ここではアマチュア以下の考えである。店員から値引きシールが商品に貼られた瞬間、主婦たちの"S"が開始する。

「奥さま、状況が変わりました。揚げ物コーナーは、おひとり様三点までだそうです。」
「愛之介さんと忠さんは、天ぷらと春巻を至急確保して。私はコロッケを獲りに行く。」
「承知いたしました。愛之介さま、こちらへ。」

 名前の素早い指示が飛び、慣れた手つきでカゴに商品を確保していく。その人口密度の凄まじさに愛之介は圧倒された。攻撃や妨害はせず、参加する主婦たちはあくまで淑女的に、熱狂のままに獲りに来る。
 特に人気商品であるゴーヤ入りコロッケが並ぶ一帯は、激戦区の一声に尽きる。一点の確保だけでも困難な混雑だが、名前は優雅な手捌きで確保していった。間隙を縫うように商品を手にしていく様は、まるで華麗なステップを刻むかのようだった。

「さすが奥さまです。"S"の神、そして無敗のカリスマ主婦と呼ばれている腕前にさらに磨きがかかっていますね。」
「名前にそんな異名があったのか。」

 忠の口からごく自然に語られた賞賛、そして妻の知られざる一面を知り、愛之介は驚嘆していた。主婦たちとの競り合いはさながら、スケーター達の技の衝突のようである。忠は押し寄せる主婦たちに物怖じせず、手慣れたプロ主夫のごとく愛之介のノルマ分まで確保した。まるで蛇のごとく俊敏な動きである。確保した商品を三点、仕える主人へと手渡した彼は歴戦の主夫の風格すらあった。

「手慣れているな。」
「この程度の"S"、愛之介さまのお手を煩わせる程ではありません。奥さま、広告の品はすべて確保いたしました。」
「素晴らしい。目当ての物は確保できたし、レジに行きましょう。」

 凱旋する女王のごとき笑みで、名前はレジへと向かう。その背には激戦を制した者特有の、圧倒的な貫禄があった。忠は従うように後ろを歩きながら、忠実な伝令兵のごとく丁寧に戦況を伝えていく。

「次の"S"は別店舗にて半額から7割引きです。」
「ここ以上に激戦になるでしょう。愛之介さん、初参加で不安だと思うけど怪我しないようにね。」
「色々と理解しがたい状況だが……どうしてそこまで本気になれる?」

 愛之介は妻の背中に問いかけた。怪我の危険性があるのに、なぜ売り場に行くのかと。熱狂と小競り合いの果てで安価な商品を確保することに、命を懸けているのはなぜなのかと。
 名前は振り向いて答えた。快晴のような笑みで。

「愛之介さんがスケートをやる理由と同じ。楽しいからよ。楽しさを共有できる人と一緒なら尚更ね。」

 極めてシンプルな回答に、愛之介は不思議な感銘を受けた。ずっと抱いていた疑問が一気に氷解したような表情で、口もとをほころばせた。

「……なるほど。ようやく理解できたよ。忠が付き添うわけだ。」
「愛之介さま、」
「次の"S"は僕も参加する。忠、先程のような手出しはするな。」
「はい。」

 暖かな夫婦の様子を、忠は優しいまなざしで見守った。"S"は楽しむものだという共通認識が、初めて三人の間に生まれた瞬間であった。
 


 次の店舗は最初に訪れた店舗より、遥かに難易度の高い"S"だった。恐ろしいほどの混雑、そして多少の妨害は当たり前に行われている。

「……駄目ね。まず商品棚に近づくことすら出来ない。この"S"を一番楽しみにしていたのに、」
「数量限定販売ではないので、殺到したのでしょう。無法地帯ですね。」

 歴戦のプロ主婦、あるいは主夫たる名前と忠から早くも絶望の呟きがこぼれた。その元凶は地元の主婦層による独占である。ふたりの落胆した暗い雰囲気を打ち消すように、愛之介が前へと進んだ。

「諦めるのか?ここまできて。」
「もちろん諦めたくないよ。でもこの状況では、」
「僕が道を開く。お前たちはその隙に行け。」
「まさか……愛之介さま、あの手を使うおつもりですか?」

 問いかけに対し、愛之介は不遜な笑みで応えた。彼は売り場からやや離れたところに行き、サングラスを外した。雰囲気はすでに対有権者用の好青年のそれであり、佇むだけで華やかなオーラがあった。すると数名の主婦たちが目敏く気付き、発狂じみた声を上げた。

「まさか……神道愛之介?あの国会議員の!」
「愛様がこんなところに!?嘘でしょ?」
「あら、近くで見るとほんとにいい男ねぇ。」

 愛様というのは主婦層による親しみを込めた愛称である。熱狂と興奮は感染していき、セールの待機列に大いに影響した。愛之介は注目されながらも、愛想をたっぷり込めた笑顔で応えていった。

「こんにちは。僕は神道愛之介です。今日はセールと聞いて、やって来ました。」

 その一言に主婦たちが熱っぽく騒いだ。やがて有名人が同じ空間にいるという興奮は最高潮に達していく。人好きのする好青年の笑み、そして甘いマスクを持つ愛之介は生粋のマダムキラーであり、議員としての彼は主婦層から絶大な支持率を誇っている。

「ずっと憧れていたんです。握手してください!」
「もちろんです。ここで貴女とお会いできたのも何かの縁です。握手だけでなく、抱擁もしたいくらいです。」

 愛之介が有権者を軽く抱擁すると、歓喜と驚嘆の声が周囲から次々とこぼれた。自らの魅力を完全に理解しきった完璧なパフォーマンスである。
 一連の流れを見ていた名前は、その自然な抱擁に驚きを隠せなかった。

「あれは……ラブハッグ!?」
「老若男女を魅了する、議員としての愛之介さまの必殺技です。奥さま、愛之介さまが身を張って引きつけてくれている今のうちに行きましょう。」
「え、ええ。」

 忠の冷静な解説が名前に理性を取り戻させた。若手の人気政治家、神道愛之介が笑顔で握手と抱擁をしてくれる。その評判や人気ぶりは凄まじく、セールの熱狂は若手議員の即席握手会、あるいは抱擁会に乗っとられたといえた。

「知っていたけれど……愛之介さんって本当に人気なのね。」
「国会議員として知名度があり、沖縄の有権者から絶大な支持率を誇っているのは確かですね。非公式のファンクラブも幾つか存在しているようです。」
「それはすごいね。家に帰ったら、労いましょう。今日一番の功労者は愛之介さんだと思うから。」
「承知いたしました。」
 
 難なく商品を確保したふたりは、そんな会話を交わした。後日、セールという名の"S"の魅力に目覚めた愛之介が頻繁に名前を誘い、スーパーに通い始めたこと。庶民派の愛妻家議員としてクチコミで話題になり、次回の選挙で圧倒的な得票で大勝したことはまた別の話である。



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