我が肋骨より生まれしイブ


※時系列は最終回後です。



 その姿を視界にとらえた瞬間、交響曲の美しいワンフレーズが愛之介の脳内で乱れ響いた。
 豊満な曲線美を随所に描いているのに華奢。やわらかな陽射しを思わせる口調なのに、どこか甘い翳りがある声質。穏やかな慈母のような雰囲気でいながら、ためらいなく罪悪を犯すような危うさを感じさせる。そんな美しい矛盾の数々を持った女は、愛之介だけを見つめて微笑んだ。

「愛之介さん、初めまして。」

 女は名前と名乗った。名前は愛之介がこれまで見てきた生き物のなかで、一番美しかったと言っても過言ではなかった。
 顔と身体、あらゆる肉体のつくりが芸術品のように整っている。それ以上に彼女から発せられる甘やかな色香が見る者を蕩けさせた。首もとの滑らかな白い肌に落ちる影すら麗しい。たとえ蚊でなくても、この女の肌に吸いつきたいと欲を抱くにちがいない。愛之介はひたすら縫いつけるように、熱心に名前を眺めた。

「私はずっと長い間、自分だけの大切な男性を探していました。そして今日、確信しました。愛之介さん、あなたこそが私のアダムだと。」

 うっとりと夢見るように恍惚しきった声だ。名前は熱っぽく目をほそめている。
 ─── この女と近い将来、心中するだろう。
 愛之介はそんな絶望的に蕩かされる未来を思い描いた。傷つけるように愛しあい、死の瞬間まで一緒に踊る。何者にも命令されず、あらゆる束縛から解放されたふたりだけの孤独の果てで、楽園を追放される。名前はたった一度会っただけで、美しい破滅の予感を愛之介に抱かせた。

「僕も今、確信したよ。君こそが僕のイブだ。」

 愛之介は強く惹かれるままに、名前を優しく抱きしめた。互いに初対面だというのに、ずっと長い間別たれていた片割れのようだと感じているのがわかる。何も語らずとも、相手のことが鏡合わせのように理解できた。ただ目の前の愛しい相手が自分にとっての運命だと、彼らは身を寄せ合った。



 "S"はかつて愛之介にとって唯一の楽園だった。彼はそこで愛抱夢(アダム)と名乗り、自らと番うにふさわしいイブを探し求めていた。
 愛之介はスケーターとして素晴らしい才能を誇る馳河ランガをイブだと見初めた。しかし彼はそれをスケートで否定し、別の者と行く道を選んだ。
 夢想を打ち砕かれた愛之介に待っていたのは、束縛に満ちた現実だった。政治家、そして神道家の当主としての日常に磨耗されていく。紳士貴顕を装った同業の政治家たちとの愛想に満ちた打算の駆け引き、叔母たちに薫陶という名の支配的な命令をされ、心身が擦り減っていく日々が再開していった。

「本当は何もかも壊されて解放されたい。誰からも命令されずに自由になりたい。そうでしょう?」
「ああ。」

 名前は愛之介に会って間もないというのに、まるで自分のことのようによく理解していた。

「僕の唯一の心の拠り処はスケートだけだ。誰からも命令されず、何もかもすべて解放されて自由になりたかった。」
「けれど、それは出来なかった。いや、しなかったと言ったほうがいい。どうして?」
「……自由になること以上に、楽しいと思えることが出来たからだろうな。」

 俗世は陽当たりの良い地獄だが、寄り添う者たちがいれば生きていける。愛之介はそう感じていた。政治家秘書として忠実に自らを慕ってくれる忠、そして己の半身のように愛しい名前。地獄の底でも支えてくれる者がいれば踊れるのだと、彼は名前へと愛おしそうに視線を向けた。

「名前と初めて会った時のことを今でも思い出すよ。僕はこの女と心中すると、確信した。」
「奇遇だね。私も同じ。いつか、この男と一緒に死を迎えると確信したの。」

 ふたりは微笑みを交わした。希望に満ちた終焉を夢想する共犯のような笑みだ。

「でも今は心中する時じゃない。その素晴らしい結末はまだ先延ばしにしたいね。」
「ああ。まだその時じゃない。名前とは、もっと楽しいことを共有していきたい。スケートでも、食事でも何だっていい。一緒に死を迎える時まで、ずっとだ。」
「善事も悪事も、愛之介さんと一緒に行うなら楽しいでしょうね。一生をかけて付き合っていきたいよ。」

 出逢った頃は美しい破滅ばかり夢見ていたのに、彼らはいつしか生への熱望を語っていた。彼らはオードブルだけを食べて終えるのはもったいないと、気づいたのだ。メインディッシュもデザートも華美に飾り、一緒に終わりまで食すことこそが楽しいのだと、さらに笑みを深めていく。

「視点も立場も違うのに、名前は僕とよく似ていると感じるよ。何故だろう?」
「アダムの肋骨からイブが作られたから、というのは答えにならない?」
「……いや、納得したよ。その答えでいい。」

 愛之介は名前の手をそっと取り、自身の左胸へと導いた。服の下にはやわらかな素肌、その奥には肋骨の連なりがある。肋骨に庇護されるように収まっているのは、薔薇のように赤い心臓だ。熱く脈打ち、生の鼓動に満ちている。
 ふたりだけの世界、楽園はすべてが美しく完結していた。愛之介はうっとりと囁いた。自らの肋骨から生まれた半身を愛しむかのように。

「名前。僕の愛しいイブ。いつか楽園から追放されるまで、一緒に生きてくれ。」



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