グラフィティ


※時系列は高校時代。
※ "S"の創設前につき、名称は『アダム』です。
※話の演出上、公共施設への軽度の落書きの描写があります。現実でこの行為を推奨しているわけではありません。ご了承の上、閲覧願います。
※悲恋です。




 真夜中の静まり返った住宅街や、公共施設の周辺を滑るのが好きだった。特にお気に入りのスポットなのは橋の下にある坂。ここで一気に加速して、橋脚に触れてエアを決めるのが毎日の日課だった。
 最高点に達したところでタッチして、マーキングをする。今のところ、他に誰も自分の高さに達したスケートボーダーはいなかった。そう、つい最近までは。

「……上書きされてる。」

 自分がエアでマーキングした3センチ上くらいに、なんだか洒落たハートマークが書かれていた。壁の状態からして一発で、この高さのエアを決めたのがわかる。
 強敵の出現に無性に胸が高鳴った。何度も夢中になって滑り、とうとうそいつの上部に自分のマーキングをした。翌日の深夜、その場所に口笛を吹く勢いで向かった。

「また上書きされてる。」

 自分が昨夜マーキングしたところより、更に上のところに例のハートマークがある。これまでの努力を嘲笑うかのように、鮮やかで芸術的なエアを一発で決めたのがわかる。
 込み上げたのは賛嘆交じりの悔しさだ。まるで技量の差を見せつけるような素晴らしいエアに、はっきりと嫉妬すらした。それから何度か滑ったものの、ようやく同じ位置にマーキングするので精一杯だった。悔しさもあって、まるで自分の存在を主張するかのように被せて書いた。
 明け方になる少し前、帰ろうとすると橋脚の下の方に何か書いてあるのがわかった。コンクリートにきれいな筆記体でメッセージと例のハートマークが書かれていた。翻訳すると『君は誰? 僕はアダム』だった。

「アダム……外国人?」
 
 このエアを決めたのは、海外出身のスケーターだったのだろうか。同郷の人間だと思い込んでいたから、なんだか肩透かしを食らった気分になった。

「『名乗るほどの者じゃない』、と。」

 日本語で男っぽく見えるように書いた。中二病というか、拗らせてるような返事だけど気にしないことにした。このアダムを名乗った人物とは、滑る時間が違う。直接会うことはなさそうだ。メッセージを書いた後、早々に立ち去った。不思議な交流にすこしだけ心を躍らせながら。



 その翌日は雨が少し降っていた。沖縄人は傘をさす風習がない。多少の雨なら止むだろうという、楽観的な思考がある。私もその例にもれず、フードを深く被って出発した。
 今夜は早めに練習しようと思い、0時をすこし過ぎたあたりに橋の下へと向かった。すると本日は先客がいた。
 清潔な白い制服、紺色のフードを目深に被っている。月の下の湖みたいな青い髪に、片手にはスケートボード。橋の下で雨宿りしている先客は、軽やかに声をかけてきた。

「やあ、ようやく会えたね。」

 爽やかな口調で、きれいな声質だった。その身なりはどこか気品があって、見るからに育ちが良さそうだ。そのまま黙っていると彼は上機嫌に近づいてきた。

「君だろ?僕のエアにマーキングしたのは。」

 静かに頷くと、唇から鋭い真珠色の犬歯を覗かせてよろこんだ。フードのせいで顔の下身しか見えないけれど、すっと通った鼻梁や形の良い唇といい、かなりの美形なのがわかる。ボードのデッキに刻まれた傷といい、彼がアダムなのは間違いなさそうだった。

「お喋りは苦手かな?君とは、ぜひ話がしたいな。」

 ずっと黙っていると、彼は屈んで橋脚のメッセージを見つめた。そして私の筆跡をゆっくりとなぞる。

「『名乗るほどの者じゃない』という返事が気に入ってね。どんなスケーターかと思えば、可愛らしいお嬢さんだったわけだ。」
「……失望した?」

 すると彼は振り返り、答えた。雨の夜に似合わない、晴れやかな笑みで。

「いいや。感動したよ。改めて君の名前を教えてほしいくらいに。」

 私たちはその日のうちに打ち解けた。まるでずっと前から知ってる、古くからの友だちみたいに感じた。
 アダムとのファーストコンタクト。それはエアの競い合いによるグラフィティから生まれた、不思議な縁だった。



 グラフィティというと、芸術ではなく公共施設への落書きのイメージが強い。そしてグラフィティには『より上手なやつだけが上書きしていい。』という暗黙のルールがある。より洗練されたクオリティを誇るものだけが、上書きを許される。それはスケートボードのマーキングでも同じだった。
 今夜もアダムと一緒に、お互いに橋脚を眺めてエアの位置を確認する。私のマーキングから2センチくらい上にハートマークが描かれていた。

「もう少しで追いつかれそうだ。」
「どうかな。アダムはまだ全然、余裕そう。」

 アダムと交流するようになってから、一か月が経った。待ち合わせの約束をしてるわけでもないし、連絡先も本名も知らない。けどほとんど毎日、同じ時間に会っていた。
 ひとついえるのは彼は私なんかより、ずっと高い次元で滑っているスケーターだということ。まるで私がその技術の領域に到達するのを待っているみたいだ。滑るたびに、飛んでマーキングを見るたびに、それは強く思う。

「……手加減なんかしなくていいよ。」

 口を突いたのは、悔しさゆえの意地だ。どんなに鍛えて練習や努力を重ねても、到達できないほどの実力差があるのがわかる。でも女だからという性差を理由に手加減されるのは、絶対に嫌だった。

「手加減なんてしてないさ。名前がとても努力していることを僕は知っている。だから負けないように僕も本気でやっているだけだよ。」

 彼は優しかった。その言葉には本心なのだろうと信じられる、確かな誠実さがあった。

「ありがとう、アダム。」

 アダムを見ていると不思議な昂揚感が湧いてきて、あたたかな気持ちになる。友情や親愛とか。名付けるとしたらたぶん、そんな感じだ。
 それから彼とは一緒に動画を見ながら新しい技を試したり、ボードについて語り合ったりした。
 オンラインの動画サイトでは、関連動画でたまに全く関係のない動画が入ってくることがある。私は間違えて、違う動画をタップしてしまった。

「牛追いの祭りか。」
「ああ、スペインのマタドールの動画じゃないかな?」

 アダムが興味を示したので、そのままなんとなく惰性で観続けた。たまたまテレビでやっていた時の知識が頭にあったから、のんびりと解説を付け加えていく。

「マタドールは闘牛士の中でも、花形で腕のいい闘牛士につけられる称号。この派手な格好した人はそれだね。」
「へえ、詳しいね。」
「テレビでやってたのを覚えてただけだよ。それにしても、すごいね。このマタドールの人、まるで牛の動きが全部わかってるみたい。」
「僕には踊っているように見えるよ。情熱的にね。」

 意外にもふたりして、マタドールの動画に夢中になっていく。華美な衣裳を身にまとった男がエストックと呼ばれる刀剣を片手に、怒れる暴牛と身を寄せて闘っている。紙一重で突進を躱して、ステップを踏むように動く。アダムの言うように、情熱的で軽やかなダンスをしているように見えた。

「マタドールは牛に対して最大の敬意と愛を込めて、戦う。それがモットーなんだって。」
「最大の敬意と愛……、」
「そう。このエストックっていう刀剣で心臓を突き刺さして、とどめを刺す。他に一切無駄な傷は与えず、致命傷だけ与える。それが牛への愛なんだって。」

 動画の中では、ちょうどマタドールが牛の心臓に刃を差しこんでいるところだった。華麗でいながら容赦のない刺突だった。牛が倒れた瞬間、豪雷のような歓声が上がった。一部始終を食い入るように眺めていたアダムは、感心したようなため息をもらした。

「愛か、いい響きだね。僕の名前にも同じ字が入ってるから親近感が湧くよ。」
「そうなんだ?……そういえば、アダムの本名は知らない。なんて名前?」
「スケートを愛するような名前、とだけ言っておくよ。」

 どこまでも秘密主義らしい。連絡先も本名も、フードの下の顔もすべて秘匿事項のようだ。私はすこしぐらい教えてくれてもいいのにと、ふて腐れた。

「ありがとう、名前。良い勉強になったよ。」

 視聴を終えたアダムが礼を告げて、立ち上がる。私も同じように立った。練習するのかと思ってボードに乗ると、楽しそうな声が割り込んできた。

「なんだか踊りたくなってきたな。名前、捕まって。」
「え?……って、待って!」

 彼は私のボードに自らのそれを合体させ、接触並走を始めた。ダンスのペアを組むように手を絡ませられ、緊張してしまう。

「さあ、僕と踊ろう。」

 アダムは至極楽しそうに、ダンスの開始を宣言する。マタドールに感化されたらしく、その動きは大胆で情熱的な力強さを感じさせた。私は驚きながらも、身を委ねた。アダムは飾り気のない微笑を形の良い唇に乗せ、私をリードしていく。そうして夜が明けるまで、橋脚の下でふたりで踊り続けた。昂揚のままに。



「アメリカに留学する。名前と話せるのも、今日が最後だ。」

 アダムは開口一番にそう言った。いつになく暗く、硬質な雰囲気で。留学は家庭の事情だと言った彼。その手にスケートボードはもう無かった。それだけで言外に何もかも、つたわってくるようだった。
 いつかこういう日が来るとは覚悟していた。寂しさや未練みたいな感情を喉奥で必死で捻り潰しながら、問いかけた。

「そうなんだ。日本にはいつ帰るの?」
「わからない。最低でも四年は帰れないだろうな。」

 彼の表情に、さらに翳りが増したように見えた。私は殊更明るくふるまうようにした。大切な友だちを鼓舞するように。

「……私、ずっとここで滑るよ。アダムのエアを抜かすためにね。」
「名前、」
「アメリカに行ってる間、あのハートマークに上書きしとくよ。グラフィティのルールは知ってるでしょ?より上手なやつだけが、上書きしていい。……だから、すぐ上書きするよ。」

 強がりだった。私は背を向けて、彼が最後に橋脚に残したマーキングを見た。高い。そして遠い。芸術的で美しいエアの軌跡。天性の才能と努力で到達した者だけが刻むことを許された、高さ。これを越えるのに何年かかるだろう。もしかしたら一生無理かもしれない。天才の爪痕は、凡人の心をたやすく砕くのだと思い知らされた。
 私は自分を奮い立たせるように拳を握りしめ、言葉を紡いだ。アダムへの心からの賞賛と尊敬を込めて。

「アダムはすごいスケーターだよ。友だちとしてそれは心から誇りに思う。……たとえ離れ離れになっても、それは変わらない。それだけは覚えておいて。」

 背を向けておいて良かった。水の膜がたっぷりと目を覆い、その溢れた水が目尻をつたって落ちていく。
 ボードを蹴ろうとした瞬間、アダムに左腕を掴まれた。強い力だった。

「名前、待ってくれ。僕の名前を教える。僕は、」
「言わないで。それは次会った時に教えてほしい。その方がいい。……本当の名前を今知ったら、」

 それは間違いなく呪いになってしまう。友情じゃなくて、もっと根深い感情を抱いていると自覚してしまう。上書きされたくない一心で、喉奥から絞り出すように声を出した。

「さよなら。元気でね、アダム。」
「……ああ。」

 素顔も名前も連絡先を知らない。それでいい。抑えきれない感情がこみ上げてきて、涙腺が熱を帯びているのがわかる。やがて左腕が力なく離され、それが別離の合図となった。きっと、これが最後だ。



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