仮面舞踏会


 政財界の重鎮が主催する仮面舞踏会は、盛況を極めていた。参加者は国会議員から政治家秘書、各界の著名人など、そうそうたる身分の持ち主ばかりである。この舞踏会では参加するだれもが仮面を被り、身分素性を隠して踊らなくてはならない。
 表面上だけの交流をする者から、愛人を探す不埒な者まで、様々な思惑や欲望を仮面の下に隠し、彼らは踊る。上質な背広や燕尾服に身を包んだ貴顕紳士たちは、自らにふさわしいパートナーを吟味し、踊りを申し込んでいった。
 身分素性のわからないミステリアスな立場は、人をより大胆にさせるらしい。絢爛な背景音楽が流れ、グラスを傾け、舞踏会の夜が更けていく。

「僕と踊っていただけないでしょうか。」

 壁際に佇んでいた名前を踊りに誘ったのは、ロイヤルブルーのスーツに身を包んだ男だった。背が高く、顔の上身を隠したベネチアンマスクから秀麗な顔立ちの一端が伺える。
 彼が先ほどまで淑女たちに囲まれていたことを、名前は知っている。好青年然としていて愛想は良いが、さほど乗り気ではないのが名前にはわかった。なぜなら、この男と名前は同類だからだ。一刻も早く舞踏会が終わり、自分の時間が欲しいと切望している。
 だからこの誘いは、一種の虫よけのようなものだろうと彼女はその意図を汲みとった。

「私で良いのですか?」
「もちろんです。貴女ほどの美しい方が壁の花でいるなんて、もったいないですから。」
「ふふ。お上手な方ですね。では一曲、お願いします。」

 男はすぐれた容姿だけではなく、女を蕩けさせる弁舌の巧さも持っているらしい。愛想のいい仮面を被り、舌先と頭がよく回り、本心を隠匿するのが上手い。政治家か弁護士だろうか、と名前はぼんやりと目の前の男の職業を予想する。
 手を絡ませ、優雅なステップを刻んでいく。男は踊りにおいても一級品の素養があるらしく、情熱的に名前をリードしていく。相当な腕前なのが身を委ねる名前にもわかった。
 
「今流れている音楽、仮面舞踏会は美しい曲ですね。」
「ええ、本当に。」

 男が言及したのは背景音楽のことだった。ハチャトゥリアンが組曲として完成させた『仮面舞踏会』は短調のワルツだ。華美にして貴族的な斜陽を感じさせるメロディは、社交界では定番の曲として親しまれている。
 しかしこの曲が劇の音楽として作曲された時、ロシアらしい凍えるような愛憎物語がつけ加えられた。男はそれについても語っていった。

「戯曲では賭博師の夫が愛する妻の不貞を疑い、アイスクリームに毒を盛るんです。」
「確か、妻は無実だったんですよね。」
「そう。夫は妻を殺めたことを深く後悔しながら、気が触れてしまう。終盤の狂気的な変調といい、彼の深い愛ゆえの狂気を感じられて、僕は特に好きですね。」

 愛という単語。そこに強烈なほどに深い思い入れのようなものを感じとり、名前は息を呑んだ。
 その熱にあてられ、触れあっていることに今更ながら名前は緊張してしまう。男は始終楽しそうに名前を見つめ、リードした。優しい気遣いを欠かさず、愛する妻に寄り添う夫のように。
 惹かれあっているのが目線だけで、互いに充分なくらいにつたわってしまっている。短い時間をともに過ごしただけなのに、胸の内側からあふれるような歓喜がこみ上げてしまっていた。

「貴女と踊るまでは理由をつけて帰る算段を立てていたのに、……貴女と踊ってから気がすっかり変わってしまいました。このまま別れたくありません。」
「ご冗談を。あなたのような素敵な方と踊れたのは、とても楽しかったです。次に踊る方を見つけますから、これで失礼します。」

 曲が終幕を迎え、名前は早々に男から手を離そうとした。強く惹かれているのは確かだが、身分素性も本名も知らないために身を引こうとした。しかし男はまったく力を緩めてくれない。手を指先に至るまで深く絡め、たっぷりと色香を含んだ声音で名前へと囁いた。

「『なぜ逃げる?俺はこんなにも、君を愛しているというのに。』」
「それは、」
「ええ、賭博師の夫の台詞です。独占欲と深い嫉妬に狂った彼らしい台詞回しでしょう。……今の僕は彼と同じ心境でね。貴女を片時も離したくない。」

 劇中の台詞を引用した男は、アイスクリームのように甘ったるい言葉で名前を炙る。致死量の甘美な毒を飲ませ、自分のものにしたいのだと身を寄せた。

「もう一曲、僕と踊りましょう。」

 慇懃な言葉とは裏腹に、断らないだろうという確信と自信に満ちた口調だった。仮面の下に魅惑的な男の素顔を隠し、彼は誘う。名前が気恥ずかしそうにゆっくり頷くと、男は嬉々としてリードした。『仮面舞踏会』の曲が再び流れ、華やかな音の波がふたりを包んでいった。



 愛之介は自身の容姿が他者にどう影響を及ぼすかを、よく心得ている。それが良い方面に働くこともあれば少々面倒なことにもなる。今夜の仮面舞踏会では、後者であった。
 女たちに囲まれ、愛想笑いも品薄になりかけた時、名前の姿が目に留まった。壁際につまらなそうに佇む彼女は、愛之介には無関心のようだった。その様子をたとえるなら交配期を迎えた猫のなかに紛れ込んだ、早く帰りたいと鳴いている仔猫のようなものだった。

「僕と踊っていただけないでしょうか。」

 女避けには丁度いい。そう打算的に考えた愛之介は、名前を誘った。至近で見ると仮面を被っているとはいえ、容姿は愛之介の好みそのものだった。

「私で良いのですか?」
「もちろんです。貴女ほどの美しい方が壁の花でいるなんて、もったいないですから。」

 本心からの言葉だったが、名前はよくある社交的な世辞として受け止めたらしい。彼女はダンスパートナーとして淑女にふさわしい所作で、愛之介の手に自らの掌を重ねた。

「ふふ。お上手な方ですね。では一曲、お願いします。」

 彼女は慎ましく、愛之介のリードに身を委ねた。会話をすると、やわらかな微笑を朝露に濡れた薔薇のような唇に乗せた。飾り気のない言葉にも、どこか気品が漂っている。愛之介が名前に強く惹かれ、目がまったく離せなくなるのに時間はさほどかからなかった。

「あなたのような素敵な方と踊れたのは、とても楽しかったです。次に踊る方を見つけますから、これで失礼します。」

 他の男とペアで踊ると宣言された時、愛之介の脳裏によぎったのは『仮面舞踏会』のワンシーンだ。
 妻が他の男のもとへ行ってしまう。そう考えた賭博師の夫はアイスクリームに毒を盛り、妻へと差し出す。愛する妻をどこにも行けないようにして、永遠に自分のものにするために。愛之介もまた、名前を他の男のもとへと行かせるつもりなどなかった。口からは、賭博師の夫の台詞が滑り落ちた。

「『なぜ逃げる?俺はこんなにも、君を愛しているというのに。』」

 身分素性や本名を知らないからこそ、余計に執着が強まったらしい。仮面の下の素顔も、服の下もすべてが知りたいと渇望してしまった。この女が欲しい、と生まれて初めて抱く情動。その未知の欲望に愛之介は身を慄かせた。

「貴女について、もっと知りたいです。」
「たとえば、どんなことを?」
「素顔や本名を。」
「それはここでは御法度でしょう。」
「ええ。ですから、もっと静かな場所へ行きませんか?これから、ふたりきりで。」

 恋に狂った男は愛しい女の手を離さない。『仮面舞踏会』のメロディが荘厳に流れていく。かくして愛と思惑と欲望を交差させ、仮面を被った男女が踊っていった。情熱的に、そして甘美に。



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